福島県史料情報 第8号
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『あめの夜の夢咄し』のペリーの肖像

『あめの夜の夢咄し』(菅野隆雄家文書-1) 昨今の幕末ブームに伴い、当館の収蔵資料が、さまざまな書籍や展覧会などで取りあげられることが増えている。写真のペリー肖像画もその一つである。

これは、のちに信達大一揆の指導者となる菅野八郎(1810─1888)が、1854年(嘉永7)にペリーを実見して描いたものである。その年の正月に神君家康の使いが八郎の夢枕に立ち、海防策を授けたという「霊夢」のエピソードとともに、その存在は広く知られている。

この資料に関して筆者は、写真上方に記されている次のようなペリー評が長らく気にかかってきた。

〔亜米〕利駕の軍将水師提督波理、身之丈六尺四五寸、色白く鼻高くまゆ毛ふとく、目は少し丸く眼中するどく、音声さわやか也。如何にも智たくましく見へて、大州の将たる人相備り、言わずともそれと見へたり鳧。年齢五十二三才と見ゆ。是実相也。

幕末に残された多くのペリー像を見ても分かるように、この時期の外国人は多分にバケモノ視されていた。八郎自身も、水戸藩の尊皇攘夷運動を強く支持し、この資料の後段でもアメリカを「逆賊」と断じている。それにも関わらず、交易「不叶時には一戦に及之きざし、いわずもそれと顕れ」たる艦隊の司令官を、「智たくましく」「大州之将たる人」と評していることに違和感を覚えたのである。

その八郎が、ときの老中阿部正弘に「霊夢」の内容を直訴に及んだのは、ペリーを目撃した9日後のことであった。しかし、その目に阿部がどのように映じたかについては、何も述べられていない。

「田植之日間をぬすみ」記したというペリーの肖像を通じて、八郎は何を伝えたかったのだろうか。

(山田 英明)

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『砂子堰江筋絵図』 『砂子堰江筋絵図』(堀江正樹家文書)

県北の砂子堰は広瀬川から取水する用水路である。慶長5年(1600)、信達四郡役として東根郷を差配していた堀江与五右衛門・渡部新左衛門が関波村南部に堰口を設け、大門・細谷(梁川町)から金原田・上保原(保原町)に至る水路を開削したと伝える。
東根郷山麓の勾配を巧みに利用し、下流に出た用水を上流部に廻す工法が取られたので、砂子堰は「伊達の逆水」と呼ばれた(『梁川町史2』)。
江戸時代の堀江家は信達四郡役・割元役を勤め、梁川(梁川町)に居住していた。残された同家文書約1200点は現在、当館の保管となっている。
そのうち、14点が砂子堰関係の史料である。延宝3年5月「砂子堰水割」、安永8年2月「関波村砂子堰之儀御尋ニ付書付以申上候事」、文政3年「砂子堰筒目論見帳」などである。

特筆すべきは、砂子堰を描いた巻子仕立ての『砂子堰江筋絵図』(30×421センチ)が含まれていることである。
絵図は巻末から始める。石籠は粗く編んだ細長い籠の中に石などを詰め込んだもので、河川を堰き止めたり、護岸のために用いた。
巻末には、広瀬川を堰き止める石籠三基、石籠により堰口に引水され流水の様子が描かれている。堰口には「砂子堰江筋」と注記されている。岸辺側の余白には「砂子堰江筋絵図堰口ヨリ高橋前弐ツ俣迄 此間八千九拾六間」とある。
砂子堰は東根郷の山麓を縫って蛇行する。集落は山麓間の谷筋ごとに開けた平地に散在している。水田は山麓前方に狭小に広がる。砂子堰の各所には小さな黒丸が付されている。樋は引水用の細長い管のことで、黒丸は樋口の位置を表示している。「惣三朗」「助左衛門」のような人名付きの黒丸は個人持ちの樋口である。この点は「砂子堰筒目論見帳」記載の「関波村彦七郎樋口六寸七寸」「大門村柳町帯刀樋口七寸五寸」などからも確認できる。巻頭が砂子堰の末流である。
「享保十六年亥十二月三日荒川権六郎様御代官所之節被仰付候砂子絵図之写」とあり、享保16年(1731)新任の梁川・川俣代官荒川権六郎に提出した絵図であることが判明する。絵図凡例の「絵図色分印」は山・道・水・田畑・屋敷など七色。黒丸は「懸樋口」とある。

(阿部 俊夫)

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『解体発蒙』

『解体発蒙』(庄司家寄託文書II-3371) この書は江戸時代の医学解剖書の一つで、文化10年(1813)三谷公器等によって著されたものである。

江戸時代の解剖書は、杉田玄白撰の『解体新書』が安永3年(1774)に出され、そのころから、五臓六腑説や、陰陽五行説など中国古来の漢方に対し、新しく解剖を重視する蘭学が注目されるようになり、中国古来の五臓六腑説では内臓の標記が正確さに欠けるところがあると蘭学との差を認められるようになった。
人体解剖を観察した杉田玄白はオランダ医書『ターヘル・アナトミア』を翻訳して『解体新書』を出版した。

『解体発蒙』(庄司家寄託文書II-3371) 一方漢方医も、解剖を観察し蘭学を取り入れ、中国古来のものとを合わせた漢蘭折衷派といわれる人たちが現れ、華岡青州などがそれで、その一人が三谷公器である。

三谷公器(1775〜1823)は、本草学の(後の博物学)で著名な小野蘭山の門人で、享和2年(1802)京都で行われに解剖に参加して、これをもとに文化10年に『解体発蒙』を著している。

この書は全4巻・附録1巻からなり木版印刷で、解剖の図は多色刷り、精密に描かれ医学古書のなかでも、際だったものとされている。

三谷は近江(滋賀県)の人で、名は樸、号を筌州(せいしゅう)といい、父の代から京都の医者であった。公器も医業を継いだが、小野蘭山に本草学を師事した。

『解体発蒙』の内容は、「解体原旨」(カタイニホンイ)「内景総括」(ハラノウチニサウググリ)として肺・心臓・膈膜・脾臓・胃・肺・胆嚢・腎臓・睾丸・子宮・経脈・門脈・液道(神経)・脳・精神解などの解説と彩色図が掲載されている。

(村川 友彦)

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『奥州信夫郡李平村絵図』

『奥州信夫郡李平村絵図』(安斎直巳家文書−42) 福島市から米沢市へ車で行くとき、現在では主に国道13号線を利用している。
この道路は昭和41年に完成したもので、それ以前は明治13年(1880)に開通した万世大路を利用していた。さらにその以前には、板谷峠を越える米沢街道(板谷街道)が、米沢と福島を結ぶ主要な交通路であった。

米沢街道は、天文17年(1548)に米沢城に移った伊達晴宗によって、信夫・伊達地方支配のために整備されたとされている。米沢が上杉氏の本拠地となると、米沢街道は本格的に整備され、米沢藩の参勤道路、米沢藩などから阿武隈川水運につなぐ廻米の輸送路となった。
米沢街道は八丁目(のち福島)から庭坂・李平・板谷・大沢といった宿を通って米沢城下に達する。李平村は慶長18年(1613)米沢藩の家臣阿部薩摩によって開かれたとされる。板谷村と庭坂村の中間に位置し、米沢街道の宿駅として人為的に開発された村である。
天明8年(1788)板谷峠を越えた地理学者、古河古松軒は著書『東遊雑記』に「今日の道中嶮しき山路のみにて、平地はいささかも歩行せず、鬼ころばし、座頭ころばしなどという深谷あり」などと記している。

この絵図は、村明細帳に添付された絵図の写しである(安斎直巳家文書−42)。縦30センチ、横37センチで、寛政7年(1795)当時の李平村の景観を描写したものである。
北を図面下に配置し、川・道・山・畑を色分けしている。東は水上橋を境として庭坂村と接し、西は「おぼが沢(産ヶ沢)」を境として米沢領板谷村と接している。街道沿いに町並みが見られ、そのまわりをわずかな畑地がめぐっている。村高は38石4斗4升で、すべて畑であった。また、「座頭ころばし」「御荷ころばし」など、古松軒の見た険阻な地形が記録されている。

明治に入ると李平村は、万世大路の完成、鉄道の開通などによって衰退し、明治35年の大火もあって、全戸が平地に移転した。

(轡田 克史)

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『福島県報』の「原本」

『福島県報』(明治35年1月1日)当館を代表する寄託資料のひとつに、福島県庁文書がある。

これは、その名の通り、県庁において作成・収受された行政文書の総称で、本紙でもたびたび紹介されている。

一般に、「福島県庁文書」というと、『福島県史料所在目録』第1集に収録されている明治・大正期分が有名である。しかし実際には、同目録に採録されなかったものが別シリーズとして整理されている。

そのひとつが「福島県報」と呼ばれる一群で、明治19年(1886)に創刊され、現在も刊行されている県の公報紙である。

当館に収蔵されているのは、旧文書学事課より移管されたもので、明治・大正期だけでも54冊を数える。大きさは縦23センチ・横17センチ程(創刊号)で、各冊に半年ないし1年分の県令や訓令などが月ごとに綴られている。

当然のことながら、県報は刊行物であり、同一のものが複数存在する。しかし、当館収蔵本は、他館のものとは異なる大きな特徴を有している点で興味深い。それは、写真中にみえる「校合済」という朱印の存在である。

ここで、県報の作成過程について述べておきたい。厳密には時期により課名に違いがあるものの、一般的に県報は文書管理部局である総務課記録係(あるいは文書係など)によって作成される。

つまり、まず主務課より「浄写」された原稿が提出され、記録係でそれを編纂するのである。その際、記録係では、印刷所よりあがってきた「試刷」や「刷成」本に校正を加えると定められている。すなわち、資料中の朱印は、その折に捺されたものであると考えられるのである。

当館には膨大な量の県庁文書が収蔵されているが、残念なことに主務課より提出されたという「浄写」原稿の存在は確認されていない。したがって現状では、この当館本が唯一の福島県報の「原本」として注目されるのである。

(山田 英明)

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『展示のご案内』

『紅白梅図』(当館蔵)当館では4月23日(金)より収蔵資料テーマ展「暮らしの中の花」を開催いたしております。これは、前年度の「ふくしまの自然環境〜江戸の博物誌〜」をうけての企画です。文化財はいわば時空を超えた贈り物です。文化財の「花」を通して自然・人工・環境というキーワードを掘り下げ、歴史学が現代の問題とどう切り結んでいくかが展示担当者の問題意識です。

経済的にゆとりの生じた江戸時代後期になると、都市住民を中心にガーデニング・ブームが巻き起こりました。それにともない、植物図譜や園芸書の出版も盛んになりました。その動向は、旅の流行や都鄙間交通の隆盛、出版物の流入などの要因によって、地方の名主層にも波及いたしました。さらに富裕層の間では、政治的な教養のひとつとして華道や茶道がもてはやされました。

展示は、ジャンル別に花鳥画・博物図譜・園芸書・花道書・茶道書の五つから構成されています。ここでは、花鳥画に関する展示資料の中でも特に優品を紹介いたしましょう。

藤小禽図 (19世紀前期)、絹本着色、一幅、蠣崎波響(1764―1826)画、館蔵。
蠣崎波響は松前藩家老で、松前氏の梁川転封にともなって文化5年(1808)に梁川へ来ました。「梁川波響」の署名から文化五年より松前に復帰した文政5年(1822)までのものとみられます。フジの枝にはヤマヒワが留まり、花は重みのままに下に垂れて咲いており、微風が感じられるほど優雅です。

紅白椿図 (19世紀中期)、絹本着色、一幅、熊坂適山(1796―1864)画、館蔵。
保原出身の熊坂適山は蠣崎波響の弟子で、花鳥画や南画をよくし、後に松前藩の客分お抱え絵師となりました。白と赤が対照的でお互いの違いを引き立たせ、気品あふれる優品です。地面にはニホンタンポポの葉、岩肌にはコケが描かれています。

春蘭竹図屏風 (19世紀中期)、紙本着色、六曲一隻、熊坂蘭斎(1799―1875)画、館蔵。
シュンラン・タケ・ササなどを描いた水墨画です。風に揺れて葉音が鳴るタケの葉、凛と咲くシュンランの花、動と静が交互に対比されています。蘭斎は熊坂適山の弟です。

会期     前期 4月23日(金) 〜6月6日(日)
        後期 6月8日(火) 〜7月19日(月)
開館時間  午前9時〜午後5時 (入館は午後4時30分まで)
休館日    毎週月曜日(祝日を除く)
入場料    無 料
展示説明会 6月12日(土)・6月26日(土)・7月10日(土)・7月19日(月)午後2時より

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