福島県史料情報 第11号
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累世年鑑

累世年鑑(渡辺弥平治家文書449〜525)昨年は災害の多い年であったといわれるが、その災害の記録を克明に記した史料がある。伊達郡川俣町の旧村役人で商人でもあった渡辺弥平治家に伝来した古文書『累世年鑑』である(渡辺弥平治家文書449〜525)。
天明元年(1781)から昭和期まで数代に渡り書き継がれて来た記録集で、その内容は多岐にわたっている。記録の中心は、米・絹・繭・綿・木綿・塩などの商品相場価格であるが、日本各地の大事件大事故(幕府政策・刃傷事件・大火・暴動等)や自然災害(地震・噴火・干魃・大雪・大雨・洪水等)のあらゆる事象について詳細に記している。
商品相場の動きをいち早く把握するためには、さまざまな情報を入手する必要があったと考えられるが、江戸や大坂から遠く離れた東北川俣において、これほど多くの情報を入手していたことは驚きである。
寛政5年の大地震と明治4年の関西地方の大津波について紹介したい。

寛政5年(1793)の大地震について「正月7日(旧暦)の昼過ぎ俄に大地震、百年以来の大地震、2時間休み無く揺れ、土蔵の屋根が潰れる。夜には大小地震が14・5あり、8日迄休まず続き、8日の八ツ時分(午後2時)亦々大地震、土蔵の壁が落ちる。5日間は小地震休み無く続き、2月中旬まで続き3月7日暮に大地震、その後昼夜4・5度揺れた。」とあり、現在で震度6程度の大地震であったと思われる。余震が2か月に渡り続いたことが分かる。
その42年後の天保6年(1835)6月25日に大地震があり8月までの2か月間度々余震が続いたとある。

明治4年(1871)の関西地方の大津波の様子は5月18日夜四ツ頃(夜10時頃)から強風が吹き、川筋は洪水になり、海岸付近は津波が来て阿倍川や木津川(淀川)の河口付近は一面海となり、兵庫・神戸・灘・尼崎・西宮何れも津波で蒸気和国船ともに陸路へ押し上げ人家押し流し、尼崎より明石まで14・5里の海岸の人家は残らず流失したとある。

(村川友彦)

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『都名所図絵』にみえる伝佐藤継信・忠信の石塔婆

『都名所図絵』(安井家文書)当館に寄託の安井家文書のなかに福島県縁の人物である佐藤継信(?〜1185)・忠信(?〜1186)兄弟に関する画像史料を見出した。

左図のように佐藤継信・忠信兄弟の石塔婆というものが『都名所図会』巻三に掲載されている。
従来、継信・忠信の墓は福島市飯坂町平野の醫王寺にあるものがよく知られていた。『都名所図会』は、秋里籬島(生没年未詳)編、竹原春朝斎(信繁、?〜1800)画、安永9年(1780)に六巻十一冊で版行された京都とその近郊の絵入り地誌である。この巻は題簽の左青龍が示すように左京より東側地域に関する記述で、安井家本は再刻本である。挿絵の解説文は左の通り(/は改行)。

佐藤氏の兄弟ハ忠肝/義膽の人にして、漢の/紀信・宋の天祥にも/おとらざるの英臣也、/美名後世にかゝやきて/武士たらん人ハ慕ひ/貴むへき也、/
此石塔婆昔ハ十三重と見/たり、星霜かさなりて/次第に崩れ落、今ハ/土臺の廻りに圍あり、

また、地の文は次の通りである。

継信・忠信の石塔婆ハは馬町北側民家のうしろにあり、石の大塔二基銘曰永仁三年二月二十日願主法西とあり、一基ハ銘なし、

一人の僧侶と二人の武士が何か話をしながら、石垣を積んだ壇上にある伝継信・忠信の多層塔を見上げている。傍らには風化した石塔を覆うように松の木が3本生えている。
石塔は永仁3年(1295)2月20日に法西という僧侶によって建立されたことがわかる。継信が屋島(香川県高松市)で戦死し、忠信が京都で自刃してから約110年後のことである。
なお、寛文5年(1665)に刊行された浅井了意(?〜1691)の名所記『京雀』巻七でも石塔に簡単に言及している。

この石塔は元は京都市東山区渋谷通東大路東入ルにあったが、昭和15年(1940)に解体修理が行われ、現在は京都国立博物館の前庭に十三重塔として復元移築されている。
以前の所在地は往時の景観とすっかり変わり、「佐藤嗣信・忠信之墓」の石碑が建っている。
継信・忠信の忠義は、近世京都の人々の心性に深く入り込んでいたのである。

(渡辺智裕)

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文書と赤線

福島県庁文書の背表紙閲覧室で受付や出納をしていると、収蔵資料について質問を受けることが多い。そのひとつに、県庁文書の背表紙上部に引かれた赤線に関する疑問がある。

これは「明治・大正期の福島県庁文書」として収録されている簿冊の一部に見られる特徴で、その理由については昭和52年(1977)の全国歴史資料保存利用機関連絡協議会福島大会で、すでに故・庄司吉之助氏によって語られている(同会編『日本の文書館運動‐全史料協の20年‐』84頁参照)。

しかし、30年以上も昔のことであり、若い方々や県外からの利用者にはあまり知られていないようなので、この機会に改めて紹介をしておきたい。

「明治・大正期の福島県庁文書」は、周知のように、県史編纂の基本史料である。『福島県史』は昭和39年(1964)から47年(1972)にかけて全26巻27冊が刊行された。

それに先立つ昭和38年(1963)、庄司氏のほか、大石嘉一郎・山田舜・星埜惇・松井秀親の諸氏により、県総務部文書広報課(当時)の管理する永久保存文書について調査が行なわれ、その成果は昭和41年(1966)に『福島県史資料所在目録』第一集としてまとめられている。問題の赤線は、右の折に、とくに重要であると思われる簿冊に与えられた印だったのである。

歴史資料としても貴重な行政文書に対し、後世の第三者が加筆を行なったことは、今日的見地からすれば批判されるべきことなのかもしれない。しかし一方で、この赤線の存在は、福島県庁文書の分析を進める上での手がかりを与えてくれる。

たとえば、赤線の有無からは、県史編纂時における注目度を推し量ることができよう。また、他のシリーズから同様の特徴を持つ簿冊が発見されれば、それらが本来は「明治・大正期の福島県庁文書」と一体であったにもかかわらず、何らかの事情により分割されたことが判明する。

いずれ、機会を見つけて、右のような観点から、福島県庁文書全体を見直す作業も行なってみたい。

(山田英明)

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八十里越の横顔

長谷部家文書の写真八十里越は、只見町叶津と新潟県下田村吉ヶ平とを結ぶ峠の道であり、かつては六十里越とともに中越奥会津間の主要な交通路であった。両地域の交流は縄文時代にまで遡るとされているが、江戸時代においても様々な物資が八十里越を行き交った。会津側からは「伊北布」「鳥もち」「会津人参」などが、越後からは塩や金物などが運ばれた。

ひとたび飢饉などが発生すると救援物資もまた、この峠を越えた。
八十里越の口留番所役を務めた叶津村の長谷部家には、中越から奥会津への救援米の輸送に関する史料が収められている。「越国ヨリ御買入米請払帳」(資料番号1710)「越国ヨリ入米人足并扶持米割合帳」(同1711)「越後ヨリ御入米方ニ付諸品積リ書」(同1712)「越国より買入米運送請掛調帳」(同1713)といった史料は、天明の飢饉の時の救援米について記している。

天明年間(1781〜1789)には、全国的に不作・飢饉が頻発した。奥会津地方でも、天明二年からの凶作に続き、天明3年2月信州浅間山の大噴火による降灰、冷夏によって大飢饉となった。
この事態を打開するため、天明4年3月には越後から米を送ることになったのである。5000俵の米が購入され、そのうち1000俵が八十里越を経由した。

「越国より買入米運送請掛調帳」は米の運送にかかった諸費用を記したものである。
また「越国ヨリ入米人足并扶持米割合帳」は黒谷組(現只見町)の村々へ救援米を運送した際の人足手当を書き出した帳簿である。これによると、黒谷村へは4斗5升入で154俵の米が送られている。この運送には231人の人足が従事し、扶持米として17石3斗2升5合が使われた。内訳として、黒谷村には人足30人など、各村ごとの集計が記されている。

救援米輸送により奥会津の大飢饉は峠を越えた。このことは物資の流通における八十里越の重要性を再認識させることとなった。

(轡田克史)

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地域史研究会活動情報

国見町郷土史研究会
「郷土の研究」の表紙ここ国見町は、文治5年(1189)鎌倉時代への扉を開いた阿津賀志山合戦の古戦場の町であり、また、この県北地方一帯は、奥州の覇者・伊達氏発祥の地としても知られ、史跡・遺跡・文化財等には事欠かない土地柄といえます。そんな風土の中で、昭和40年(1965)、町内の郷土史愛好家により「史跡を訪ねる会」が発足。その後、昭和46年、近隣の町村に先駆けて企画された町史編纂の協力団体として、「国見町郷土史研究会」に生まれ変わり現在に至っております。

当会は代々、佐藤善次郎氏をはじめ優秀な指導者に恵まれ、現在は菊池利雄氏の指導のもとに、年2回春秋の研修旅行、町文化祭参加、年1回の会報「郷土の研究」発行。年1〜2回の歴史講演会等を実施して研鑽に励んでいます。

当会の指導者・菊池利雄氏は、各方面の歴史文化振興に寄与し、その功績により平成15年度叙勲では旭日単光章を受賞しています。

当会最近の活動は、平成15年度年間研修テーマとして奥州伊達氏を掲げ、春の研修旅行「奥州伊達氏揺籃の地めぐり」秋は「奥州伊達氏の史跡探訪」で、伊達氏の発祥から奥州の覇者として隆盛を極めた歴史的経緯を研修。年度末に、菊池利雄氏の「奥州伊達氏の女たち」の講演会で締め括りました。次いで平成16年秋の研修旅行では、「奥州合戦後の県内における源頼朝御家人配置の地探訪」で奥州合戦後の勢力変化・分布とその盛衰の大要を見聞。

また平成14年度、15年度は拓本に挑戦し、菊池利雄氏の指導で、町内の「いしぶみ」の拓本を採取、素人ながら、展示場一杯に迫力ある拓本習作展示を行ない大好評でした。平成16年度の町文化祭には、「国見町村合併50年のあゆみ」の展示に取り組み、内外の絶賛を浴びた次第です。

本年度の会報35号は「国見町町村合併50周年記念号」の発行予定。

現在会員は262名、年々減少しているのが現状で、若手の入会を切望しているところです。

(国見町郷土史研究会庶務担当内池育男)

住所  〒969─1761
伊達郡国見町藤田字観月台15
国見町公民館気付
電話  024─585─2676
会費  2500円

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展示のご案内
連日、市町村合併の話題が新聞紙面を賑わしています。
昨年11月には、会津若松市と旧北会津村が合併し、新たな会津若松市が誕生しています。官報告示により、田村市・会津美里町などの誕生が決まっています。合併問題は県民の大きな関心事になっています。
今回の「平成の大合併」との関連で、当館では3月4日(金)から収蔵資料テーマ展「わが町の誕生〜公文書にみる市町村合併」を開催します。
県内の市町村は過去3回の大規模合併を経験しています。最初の合併は明治21〜22年(1888〜89)「明治の大合併」、2回目は昭和28〜36年(1953〜61)「昭和の大合併」、3回目は昭和40〜41年(1965〜66)郡山市・いわき市・福島市の「広域合併」です。明治19年末、県内の町村数は1731でした。それが3回の合併を経て、昭和43年90市町村となり、今回の大合併を迎えました。
展示では「明治の大合併」と「昭和の大合併」を対象に、市町村合併の動き、行政区域の変遷などを紹介します。

『各町村色分絵図』明治の大合併 明治21年6月、政府は行政機能強化を目的に、1町村300〜500戸を標準とする町村合併を推進しました。19年末全国の町村数は71000余でしたが、合併後の22年末には15820町村となり、新たに39市が誕生しました。同様に、県内の町村数も約4分の1、43に激減しています。
展示資料の『各町村色分絵図』は合併直後、県内の郡絵図を納めています。新旧町村の範囲を点線で区画し、新町村ごとに色分けしています。写真1は「磐城国磐前郡図」の一部、平町・好間村・内郷村・飯野村周辺です。短冊状の枠内には町村名が朱書きで記載されています。高坂・御厩・御台境などの旧町村名も確認できます。

合併計画図昭和の大合併 終戦直後、全国の市町村数は10000余でした。政府は行財政基盤の強化、行政事務の合理化などを目的に、昭和28年「町村合併促進法」、31年「新市町村建設促進法」を施行しました。1町村7000〜8000人とする合併標準を設け、町村規模の適正化を図りました。これにより、市町村数は約3分の1、3400余に減少しました。
本県の場合、29年386市町村でしたが、36年120市町村となりました。写真2は県策定の合併計画図です。旧市町村を白筋、新市町村を黒筋で区画し、新市町村別に色分けしています。この計画図に即して、県は市町村合併を推進したことが判ります。
収蔵資料テーマ展 「わが町の誕生〜公文書にみる市町村合併」
会場  福島県歴史資料館 展示室
会期  3月4日(金)〜4月17日(日)
時間  午前9時〜午後5時(入場は午後4時半まで)
休館日 毎月曜(3月21日を除く)、3月22日(火)
入場料 無料

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おしらせ

「友の会」通信
当館では、平成17年度より「福島県歴史資料館友の会」を立ち上げます。それに先立ちまして、3月5日午後1時半より、福島県文化センター視聴覚室にて、設立準備総会を行ないます。
本県の歴史や文化に関心のある方であれば、どなたでも参加できますので、ぜひご出席ください。

新寄託文書紹介
円谷善人家文書(矢吹町大字中野目)は、慶安4年「奥州石川郡中野目村御検地帳」寛保2年「石川郡中野目村指出シ帳」寛政8年「御用日記中野目組大庄屋」など約1200点が収録されています。いずれも、庄屋・大庄屋兼帯の円谷家に関する貴重な史料です。

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