福島県史料情報 第13号 (平成17年9月25日発行)
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八十里越改修史

「八十里峠新道の儀に付伺書」付図(長谷部大作家文書-2566)の写真越後と南会津とを結ぶ重要な峠道、八十里越は、幾度もの改修工事を経験しており、その歴史は、峠道の改修史という側面から捉えることもできる。

八十里越の歴史の中で、画期となる改修工事は3回ある。
天保14年(1843)田島代官平岡文治郎らが進めた改修工事により、八十里越は牛馬が通れる道となった(古道)。明治14年(1881)に開削された道は、新潟県側は旧路線を改修したもの、福島県側は遅沢から木ノ根に至る新路線であった(中道)。明治22〜27年(1889〜94)の改修工事は、荷車の通行を可能とするもので、新潟県側は旧路線を利用、福島県側はさらに新しい路線となった(新道)。

この絵図は、明治9年(1876)に福島県知事に提出した請願書に添付されていたものである。
朱の実線が旧路線、破線が計画線である。尾根筋を通る旧路線と異なり、新路線は入叶津から沢沿いを通り、一気に鳥越山を越えて沢沿いに越後大谷に至る。請願書によると、旧路線は険阻だが、大谷からの新路線は平坦で距離も短く、「新潟港より東京へ近道にて」、三国峠を通るより13里も近くなる、としている。しかし難工事が予想されたため、明治11年(1878)に却下された。

現在、八十里越は国道289号線となり、平成元年度(1989)から新路線の建設工事が始まっている。この工事では、八十里越は叶津と大谷とを結ぶことになっている。


写真は「八十里峠新道の儀に付伺書」付図(長谷部大作家文書-2566)。

(轡田克史)

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奥州伊達郡貝田村絵図

「奥州伊達郡貝田村絵図」貝田村全体図県庁文書『若松城地関係其他』(F1983)は(1)明治32年(1899)「伊達郡大木戸村大字貝田全図」(60×45センチ)、(2)同年謄写「奥州伊達郡貝田村絵図」(62×94センチ、国見町)を編綴する。
(2)はその裏書に「元禄十壱年寅四月貝田村名主伊左衛門」とあり、原図は元禄11年(1698)作成の絵図であったことが判明する。
(1)凡例に「官有草山申請地」とあり、その範囲は(2)では山名記載のかぶせ紙で覆われている。かぶせ紙は地租改正により官有林となったが、江戸時代には共有地であったことを示している。隣接する小坂村大字泉田では同年『官有地民有引戻申請書』を農商務省に提出しており(『国見町史3』)、(1)(2)は山野引戻し申請書の添付資料であったと考えられる。

一義的な役割とは異なるが、(2)で留意すべきは元禄11年当時の貝田村と貝田宿の景観が色鮮やかに描かれていることである。

「奥州伊達郡貝田村絵図」貝田宿のアップ貝田村の東端部・西端部には、山々が連なる。奥州道中は山々を仰ぎ見るように、平坦部を縦貫し、伊達郡最北端の宿駅、貝田宿を経て仙台藩領刈田郡越河宿に至る。西端部の山中を水源とする風呂沢川が貝田宿を二分し、川を跨いで風呂沢橋が架かる。
道中の両側に家並みが軒を並べる。ケバ状に描かれた軒先は萱葺き屋根を表現している。絵図注記には「本家数八十七軒」とある。橋の袂には法令・禁令を掲示する制札場、宿駅北端には旅人の往来や物資の移出・移入を監視する口留番所が描かれている。
やや太目の朱筋で表現される奥州道中には、当該の箇所ごとに「町内四丁」「御制札場」「風呂沢橋」「御番所」と記載されている。

(2)は後年の写しであるが、失われた景観を偲ぶ、貴重な絵図といえよう。


写真は明治32年(1899)謄写「奥州伊達郡貝田村絵図」の全体図と、貝田宿部分の拡大図(福島県庁文書F1983)

(阿部俊夫)

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「漢籍」の種類

「諸儒註解古文真宝」(堀江正樹家文書-708)の写真当館に収蔵されている歴史資料のひとつに、漢籍がある。

これは、漢文で記された書物のことで、かつて名主であった家や寺院から寄託されている文書群に含まれていることが多い。

なかには、写真のような、初学者向けに訓点や返り点を付したものも存在している。江戸時代において、中国の思想や文献が、いかに基礎教養として尊ばれていたかが窺われよう。

しかし本来、「漢籍」とは、中国人が中国語で著した書物のうち、辛亥革命(1911年)以前のものを指す。この定義によれば、日本人が日本人のために、訓点や校勘を行なった書物は含まれない。

したがって、前述の史料は、厳密には「漢籍」とはいえず、たとえば準・漢籍として区別すべきなのかもしれない。

ただ、日本における漢籍研究の一大拠点である京都大学人文科学研究所では、これらも例外的に漢籍として認めているようだ(京都大学人文科学研究センター付属漢字情報研究センター『漢籍目録―カードのとりかた』、2005年、朋友書店)。ここでは右の基準に従っておきたい。

また、漢籍は、その出版地によって、唐本(とうほん)・朝鮮本・和刻本の3種類に大別される。

「唐本」とは、唐すなわち中国大陸で出版された、正真正銘の漢籍である。主に大名家や大寺院の旧蔵本のなかに見ることができる。

一方、朝鮮半島で刊行された「朝鮮本」も、やはり国外からの輸入本であるが、唐本と比べると点数は少ないという。

これらに対して、圧倒的に多くの量が残されているのが、「和刻本」である。これは、日本国内で印刷されたもので、当館が収蔵する漢籍の大半は、これにあたる。

さらに同じ和刻本でも、白文のみの書物から、訓点・返り点つき、さらには注釈文のある種類まで多岐に渡っている。

漢籍は、古文書・古典籍のなかでも、とくに蓄積のある領域で、利用にあたっては幾つもの予備知識が必要となる。機会があれば、それらについても紹介することにしたい。


写真は「諸儒註解古文真宝」(堀江正樹家文書-708)。

(山田英明)

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全国民黙祷時間の実施過程

電報(『事変関係』福島県神社庁文書-577)現存する戦時期の福島県作成の公文書は、保存年限の問題や昭和20年(1945)の敗戦時の機密文書廃棄等により極めて少なく、僥倖にも廃棄を免れた福島県神社庁文書が比較的まとまった社寺兵事課作成文書として知られているにすぎない。

ここでは、そのなかの一つに着目し、戦時下のプロパガンダをみていくことにしたい。左に掲げた史料は、昭和13年10月10日付けで厚生省臨時軍事援護部長から官選の福島県知事・君島清吉に宛てられた電報で、その訳文は左記の通りである。

靖国神社臨時大祭ニ際シ、全国
民黙祷ノ日時ハ、十月十九日午
前十時十五分ニ決定ス、
厚生省臨時軍事援護部長
福島県知事殿

この史料は『事変関係』(577号)という表題の簿冊に収録されており、表紙の記載から福島県学務部社寺兵事課に属する永年保存文書であることが分かる。なお、昭和期の福島県神社庁文書では、内容により2系統の表紙が使われている事実は史料の伝来を考える際に注意しておいてよいことであろう。この簿冊には、昭和12年7月30日から同14年12月16日にかけての起案や収受文書などが綴られている。

まず、昭和13年9月26日付けで厚生省臨時軍事援護部長から各地方長官宛てに、靖国神社臨時大祭に際して全国民黙祷時間の設定および戦歿軍人慰霊祭の執行が通知された。10月7日、社寺兵事課では、支庁長・市町村長宛てに大祭当日は靖国神社に対する1分間の黙祷とラジオ放送・サイレン・鐘等を用いてこれを住民に周知徹底させることが起案されたのである。上掲の十月十日の電報により、黙祷の時間は昭和天皇が玉串を捧げる19日午前10時15分に定められた。これをうけて翌11日、社寺兵事課では、18日午前11時から福島市公会堂において福島県戦歿者慰霊祭の執行と19日の黙祷が起案された。これは同年10月14日付けの「福島県報」第1249号として登載されている。

原武史氏によれば、日中戦争以降、天皇の地方視察が中断されたため、行幸啓による「視覚的支配」からそれを超越した「時間支配」への転換が図られたという。


写真は電報(『事変関係』福島県神社庁文書-577)。

(渡辺智裕)

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地域史研究会活動情報

会津史談会
『会津史談』表紙会津史談会の会員は、全国津々浦々に渉りその数400人を数え、会津に関係ある歴史を研究し、郷土史の究明と普及を通じて地方文化の向上を図るため、昭和6年に創立し、会津に覇権をとなえた歴代の領主・藩主は勿論、土地の豪族・社寺、時代毎の人物の去就等々を研修するため実地見学学習、講演会、研究発表会、会誌、その他の出版物の発行、史料及び史蹟の保存や先人の顕彰に関すること等を主たる活動にあげ研鑽している。

昭和6年創刊の会誌も79号を数え、毎年度当初の総会の記念講演の記録(今年度は会津若松史研究会長の大塚實氏)、会員よりの投稿も数多く、茶室麟閣の移築復元の記録、蒲生氏郷の事績と会津学問の祖横田三友斎俊益、姥神事始め、保科正之の幕藩政治改革、松平保定御守護職以降憶測誌、白虎隊士自刃蘇生者「飯沼貞吉」生涯、北海道標津村を訪れた野出蕉雨氏、百年前の日露戦争の全貌や会員よりの簡単文投稿の「会史亭」、前年の会津藩ゆかりの土地訪問記を掲載しております。

昨年訪問した信州高遠は、会津藩主保科正之公が幼少の頃過ごした地であり、町長・歴史研究家との交歓会の後高遠町の進徳館・高遠城跡・高遠町立歴史資料館・保科家の菩提寺の研修の後、諏訪大社・飛騨高山・白川郷の見学をとおしてそれぞれの繋がりを理解し大切にしていくためにも郷土史の研修を深め、会津との繋がりを探って行くことは大切な事と理解し、本年は保科正之公が青年時代を過ごした最上藩・山形を訪ねることにしている。

会津は戊辰の悲惨な歴史だけでなく古代・中世の歴史に支えられて今日があり、研修に携わる方々が会員として数多く参加される事を切に要望するものである。


写真は会津史談会の会誌『会津史談』の表紙。

(会津史談会 会長 鈴木邦意)

〒965─0875
会津若松市米代2丁目5─54
会費 4,000円
入会金 1,000円
会員 454人(平成15年度)

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講習会のご案内 

当館では福島県の歴史に対する認識を深めるため、毎年度地域史研究講習会を開催しています。今回は10月16日(日)、福島県文化センター二階会議室において、福島県歴史資料館展示室で開催予定の歴史資料展「峠を越える人々」に関連し、「峠」に関する講義を中心に行います。講師及び演題は、以下の通りです。

  • 小野寺淳氏(茨城大学教育学部教授)「歴史的景観の保存と観光資源化〜大内宿と喜多方を中心に〜」
  • 誉田宏氏(福島県史学会長)「ふくしまの峠」
  • 阿部俊夫(福島県歴史資料館)「絵図の中の峠」
  • 轡田克史(福島県歴史資料館)「峠を越える人々〜八十里越を中心として〜」
  • 渡辺智裕(福島県歴史資料館)「戦時下における福島県の公文書〜『記憶の中の戦争』展を担当して〜」

詳細は当館のHPをご覧いただくか、直接当館へお問合わせください。

平成17年度地域史研究講習会
会場  福島県文化センター 2階会議室
日時  10月16日(日)
時間  午前9時〜
受講料 無料

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展示のご案内 

峠を越える人々

「定留物」(長谷部大作家文書-1737)の写真高度に交通の発達した現代において、つづら折りの古い峠道は急速に姿を消しつつあります。一方で古道や峠を文化遺産として見直し、実際に歩く人々も増えています。
今回の展示では、江戸時代から明治時代にかけての史料により、峠の果たしてきた役割を検証します。展示は5つのコーナーで構成しました。

ふくしまの峠
山地が7割を占めるとされる福島県には、峠も無数にあります。このコーナーでは栗子峠、板谷峠、駒止峠、鳥井峠、勢至堂峠、六十里越といった峠を紹介します。
八十里越概説
今回の展示では、只見町と新潟県三条市とを結ぶ「八十里越」を主に取りあげます。八十里越の峠道の様子、口留番所の様子を紹介します。
峠を越える人々
八十里越は南会津と越後とを結ぶ幹線の一つであり、多くの人が越えました。このコーナーでは通行の許可を求める文書などを展示します。
峠を運ばれた物たち
峠を越えるのは、人だけではありません。八十里越を通って、会津側からは特産のからむしや鳥もち、牛や馬などが、越後からは塩や米、金物などが運ばれました。
八十里越改修史
険しい山中を通る峠の道は不断の改修が必要でした。八十里越では江戸時代から明治時代にかけて3度にわたる大改修工事がありました。

八十里越の様子を今に伝える貴重な史料「長谷部家文書」(当館保管長谷部大作家文書)は、今年4月15日、県重要文化財に指定されました。
今回の展示は、これを記念するものでもあります。



写真は「定留物」(長谷部大作家文書-1737)の一部。
歴史資料展「峠を越える人々」
会場  福島県歴史資料館 展示室
会期  10月7日(金)〜11月23日(水)
時間  午前9時〜午後5時(入場は午後4時半まで)
休館日 毎月曜日、10月11日(10月10日は開館します)
入場料 無料

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おしらせ

新寄託文書紹介

佐藤孝徳家文書(いわき市江名)
佐藤氏収集の近現代文書約180点。磐前郡下好間村叶多家文書、高木誠一氏(磐城民俗研究会創立者)関連資料から構成される。注目すべき文書は明治18年「御布達類綴」27年「御達綴」など、戸長・郡長から下好間村宛て布達を収める簿冊である。後年実業家となる郡長白井遠平からの告示も散見する。
円谷重夫家文書(西白河郡矢吹町)
幕末から明治前期の土地・金銭貸借に関連する文書、約100点である。円谷家は白河藩領明岡村の庄屋。収蔵資料目録第17・34集は同家文書約920点を収録する。今回の寄託により、阿武隈川舟運や村況を詳細に把握できるようになった。

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