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福島県史料情報 第19号(平成20年1月21日発行)

 
 目 次
 『五十辺村絵図』
 信夫山は、福島市のシンボルとして昔から「御山」の愛称で呼ばれてきました。江戸時代の信夫山は、小山荒井・丸子・五十辺・御山・森合など五ヵ村に含まれていました。
『五十辺村絵図』
(安斎直巳家文書-49 32.5×38㎝)
 本絵図は信夫山の東側(旧五十辺村)の図で、天保四(一七〇三)年以前に製作されたものの写しで、高六百九拾石三斗四升の石高と左下には五十辺村と記載されています。
 五十辺村は、現在の八島町・堀河町・入江町・岩谷・大森・立石・北原・猫渕・滝元・坂登・石田・岩ノ前・山際・山居・茶屋下・道前・北ノ前・田中島・館ノ前・館ノ内・蝦貫・矢倉下・遠瀬戸・古川・中荒子・北中川原・高野河原下・下荒子・本新畑・松山町が含まれています。
 信夫山の麓には南北に走る奥州道が描かれています。旧国道の四号線(または電車通り)に当たります。道の東西には一里塚があり、また松川近くには家並みが確認されます。
 山腹には岩谷観音、北側には龍洞神社があります。岩谷観音は、観音堂の北西には大小さまざまな磨崖仏や名号を刻んだ供養塔があります。
 絵図の中央より下に真言宗観音寺や伊賀良目館内の集落が描かれています。観音寺は明治二十三(一八九〇)年の火災で焼失後、現在の岩谷観音の西側に移転しました。国道一一五線の南側には墓地の一部が残り、当時の面影を残しています。
(高橋信一)
  
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 塙の鍛冶1
 私達が生活する福島県では遠い昔から鉄作りが行われていました。南相馬市で行われた原町火力発電所関連遺跡発掘調査では、古墳時代(七世紀)から平安時代(十世紀)にかけての大規模な製鉄遺跡が発見され、当地が砂鉄・木炭という在地の豊富な資源を利用した古代の東日本では屈指の製鉄地帯であったことが明らかにされました。
『乍恐以書附奉申上候』(近藤良平家文書368)

 七世紀後半から八世紀後半(奈良時代)にかけて成立したとされる万葉集には次の歌があります。『真金吹く 丹生の真朱の色に出て 言はなくのみそ 吾が恋』。この歌の作者は若い女性と思われます。「真金吹く」は鉄を精錬すること、「丹生の真朱」は赤土の赤い色のことを意味し、ここまでで赤い色のことを言うための序の詞になっています。次の「色に出て 言はなくのみそ 吾が恋」では「私はあなたを深く恋い慕っているのですが、他人には知られないようにしているだけです」という率直で可憐な心情を表現しています。この歌は、平安時代に編纂された「和名類聚抄」という辞書の中で南相馬市周辺が「真吹郷」と記されていることや、発掘調査によって大規模な製鉄遺跡が発見されたことから当地のことを詠んだものと考えられています。
 中世になると製鉄に関する文献史料や伝承がないため、わからないことも多いのですが、阿武隈高地には「野たたら」の痕跡を残す遺跡が数多く発見されており、将来その歴史的な変遷が考古学の調査で明らかにされるかもしれません。江戸時代以降になると製鉄に関する文献史料が今日まで数多く残されています。その中でも現在の塙町周辺の鍛冶に関する史料は、福島県の製鉄史を明らかにする上で大変貴重なものです。
 棚倉藩領であった現在の塙町周辺では、慶長年間(一五九六~一六一四)から鍛冶による農具製造をはじめたものと思われますが、その具体的な様子は福島県歴史資料館に収蔵されている近藤良平家文書、青砥和夫家文書によって知ることができます。
(小暮伸之)
 
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 簿冊と落書
 福島県歴史資料館の収蔵資料は、劣化程度の差こそあれ、いずれも原蔵者が長年に亘って大切に保存してきたものばかりである。しかし、なかには、通常の使用や保存の過程で付されたとは考えにくい書き込み、すなわち落書のあるものが存在する。
『官省上申案決議録』(福大県庁文書32)
 たとえば、「福島大学明治・大正期の福島県庁文書」(以下「福大県庁文書」、収蔵資料目録十六集に収録)中の簿冊(写真)である。その表紙には、大きな丸印と覚しき線が、ほぼ全点に渡って鉛筆(赤鉛筆・青鉛筆を含む)で書き加えられている。
 この「福大県庁文書」は、その名称の通り、もともとは福島県庁文書の一部だったが、福島大学が古書店から購入したものだという。行政文書が古書市場で売買されていたことを驚かれる人も多いかもしれないが、これは決して珍しいことではなく、現在でも古書店の売立目録には行政文書がしばしば登場している。
 この「福大県庁文書」を歴史資料として捉えるとき、重要となるのは、これらがどのような経緯、そして経路によって流出したのかという点である。通常、行政文書が古書市場に流れるとき、次の二つの形が考えられる。
 ひとつは、行政文書が廃棄される際に、処分を任された業者が古書店へ横流しした可能性である。この場合、その行政文書は現用期間を満了し廃棄されたものであり、本来ならば存在していないはずの文書である。
 もうひとつは、行政文書の使用者あるいは管理者がそれらを持ち出し、後に古書店の手へ渡った可能性である。この場合、その行政文書は現用段階で行方不明になったものであり、歴史資料としての性格は前者とは大きく異なってくる。
 「福大県庁文書」が、そのどちらに該当するのかは、現時点では判断できないが、いずれにしても特殊な経路を辿った史料であることは間違いなく、その表紙に書かれた丸印も意味のない記述と考えることはできない。
 おそらくは、行政文書を廃棄もしくは持ち出す際に、担当者が行なった選別の痕跡ではなかろうか。落書(と思われる記述)もまた、軽んじることのできない情報なのである。
(山田英明)
 
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 角田柳作と福島県庁文書
 昨年十月二十日から十二月二十日の会期で「角田柳作展」が早稲田大学大隈記念タワーで開催された。また、同時期に早稲田大学図書館では「『角田柳作記念文庫』開設記念展示」が開かれ、筆者も充実した内容の両展示を観覧し、朝河貫一と並び称され、日米の架け橋となった角田柳作に対する認識を深めることができた。と同時に、角田は明治三十六年(一九〇三)から同四十一年まで福島県立福島中学校(現在の福島県立福島高等学校)の教員を務めており、当館に収蔵されている職員の任免や明治四十一年の嘉仁皇太子(後の大正天皇)の東北巡啓などに関する「福島県庁文書」が私の脳裏に浮かんだ。これらを広く世に紹介することが、早稲田大学と福島のアーカイブズにゆかりのある筆者に課せられた責務のようにも感じられた。    
左は『日誌』(F104号、本文中の図1)
右は『日誌』(F109号、本文中の図2)
 紙数の関係で東北巡啓と角田については別稿に譲ることとし、ここでは明治三十六年から四十一年にかけての『日誌』(F一〇四~一〇九号)を素材とし、角田に関する任免・出張・待遇に関する基礎的な事実関係を明らかにしていきたい。『日誌』は「福島県庁文書」のシリーズのひとつで、内容は福島県職員の任免・異動・給与額・県外出張・懲戒などを役職とともに年ごとに整理・記録した簿冊である。その一部については既に内海孝氏が「角田柳作のハワイ時代」(『早稲田大学史記要』第三〇巻)で論及されているが、本稿では角田に関する記述を網羅的に年次を追って述べていくことにする。
 明治三十六年四月四日、角田柳作は福島県立福島中学校教諭心得として採用されて福島の地を踏むことになり、その待遇は月俸五十五円であった(図1、『日誌』、F一〇四号)。また、同年十月現在の『福島職員便覧』の「中学校(福島中学校)」の覧にも角田柳作の名が見えている(『行啓事務書類』、F五四七号)。当初、角田は英語の担当であったが、明治四十一年段階では英語と修身を担当していたことが知られるのである(『行啓事務書類』、F五五一号)。五月八日には同校教諭中村貫一(数学担当)とともに修学旅行の指導として栃木県出張を命じられたが、教諭心得の角田は赴任直後ということもあって副としての引率であった。十二月十七日、福島に来て初めての年末の賞与が支給され、その額は四円と記されている。
 翌三十七年五月十日にも、修学旅行の引率として同校教諭飯島清四郎(地理歴史担当)と一緒に山形県出張を命じられている。六月三十日には文部省が開設した夏期講習会出席の手当として三十円を給付された。この講習会には、県内各地の中学校・福島師範学校・福島高等女学校から一名ずつ合わせて七名の教員が派遣されている。十二月十九日、年末の賞与は五円に増額されたが、翌年の昇給も含め、これは講習会修了によるものであった可能性が高い。
 同三十八年一月二十一日、月俸は六十円に昇給している。五月五日、同校教諭心得内海輝邦(図画担当)とともに修学旅行指導として栃木県出張を命じられ、初めて正としての引率であった。十二月十九日には年末の賞与五円が角田に支給された。
 翌三十九年の角田の動静は「福島県庁文書」からはほとんど判明しないが、十二月十五日に支給された年末の賞与は前年と同じ五円であった。
 同四十年六月八日、角田は漸く教諭心得から教諭に昇任し、その俸給は四級となったのである。これは同年六月十日付『福島県報』第一二五号からも確認されるが、『福島県報』に「叙任及辞令」の覧が設けられるのは管見の限りでは明治三十九年四月以降であることを指摘してお きたい。十二月十八日に支給された年末の賞与も教諭昇任にともなって五円五十銭に増額されている。
 ところが、同四十一年九月三十日、角田は宮城県への出向を命じられたのである。各府県間をまたぐ異動はこの当時は頻繁にみられ、史料上は通常「出向」と表現されるが、角田の場合はいわゆる「角田事件」のために福島を逐われたというニュアンスが色濃く漂うのである。この異動は同年十月二日付『福島県報』第二五九号にも掲載されている。同十月三日には宮城県立仙台第一中学校教諭に任じられ、待遇は福島中学校と同様に四級俸が与えられることになった(図2、『日誌』、F一〇九号)。この辞令は不自然にも十月二十三日付『福島県報』第二六五号に十九日の発令者とともに掲載されているが、本来ならば三日に発令された他の人たちと一緒に十月六日付『福島県報』二六〇号あるいは同九日付の二六一号に掲載されるべきものであった。この人事は十九日に決裁されて三日に遡って発令されたと内海氏が「宮城県庁文書」を用いて鋭く指摘されているが、このことは『福島県報』や『日誌』の記載形態からも裏付けられ、行政文書のからくりを垣間見る思いがする。
(渡辺智裕)
 
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 全史料協研修会に参加して
 去る十一月二十日から二十一日にかけて、茨城県水戸市で行われた全国歴史資料保存利用機関連絡協議会の全国大会に参加した。
 「アーカイブズの新時代へ」を大会テーマに掲げ、日本の文書館の現状と課題、あるべき未来像について、事例報告や活発な議論がなされた。研修会では「市町村公文書館の現状と課題」というテーマで東京都板橋区公文書館の鈴木直充氏の事例報告を聞いたが、区行政職を退職したベテランを特別職として採用して区行政文書の収集や分類・整理に役立てている他、マスコミや議会筋の理解を得、来館者の満足度を高める工夫をして区民に公文書館の存在をアピールする事、区民のためのアーキビストとして職員の意識改革を図る事など、参考になる事例が多かった。
 全体会報告Ⅰでは日本経済新聞社の松岡資明記者の「日本のアーカイブズとその未来」という講演がなされた。松岡氏は日本でも有数のアーカイブ通の記者で、報道人のアーカイブズの理解不足を嘆いていた。結局は我々のような歴史資料館や文書館に勤める人間が積極的にマスコミにはたらきかけることにより報道関係者の理解を深めることが大切なのであろう。
 講演の内容は、公文書は国民共有の財産であるとの認識や、行政文書のみならず林政や音楽・演劇・工業技術など様々な分野でアーカイブズが失われないようにすべきとの話、博物館・図書館・アーカイブズの連携が必要との話がなされた。
 全体会報告Ⅱは茨城県立歴史館の塩澤俊之氏による「茨城県立歴史館における公文書保存の現状」と題した講演がなされた。それによれば、茨城県立歴史館では、県庁の文書主管課との密な連携や文書主管課に対する研修会の開催で文書保存の必要性についてアピールしたり、史料紹介展等の啓発活動で歴史館のメリットを県民に訴え、移管された県行政 文書の整理・保管・公開を計画的 に実施して、茨城の歴史センターとして「今を伝える」責務を負う文書館として努力している事例が話された。特に県庁行政文書を集めるために県庁総務課と連絡を密にし、県庁各部局との協力体制を強化している点が参考になった。
 今回の大会に出席して、福島県歴史資料館においても、体系的な公文書の収集・整理・保管体制の構築と、公開に向けた努力という、アーカイブズとしての機能を高める必要性を強く認識した。
 (山内幹夫)
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 新公開史料展2の開催
 平成19年度の「友の会」は、設立3年目を迎え、ますます充実した活動を行なっています。とくに今年度は、研修旅行、会員限定による展示見学会や友の会講座など、会員参加型のイベントに力を入れています
 福島県歴史資料館では、特定のテーマを設けて、年四回の収蔵資料テーマ展を開催しています。平成十九年度は、「描かれたふくしま」・「ふるさとを築いた人々」・「新公開史料展Ⅰ」に引き続き「新公開史料展2」を開催します。
 「新公開史料展」は、県内外から寄託を受けた古文書・書籍類などの資料が整理作業・目録編集を終えて、県民共有の財産として活用していくことができます。平成十八年度に刊行された「福島県歴史資料館収蔵資料目録38」から、長沢清家和算資料・鈴木重郞治家文書・冨田家黒沼神社文書・福島県報・福島県寺院関係文書を展示します。
 内容は、江戸時代後期の代表的な読本作家である曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」、明治時代前半期の政治家・小説家である東海散士(本名は柴四朗・旧会津藩士)の「佳人之奇遇」、最上流和算の教科書ほか貴重 な古文書・和書・書籍類を展示します。
 写真は、「南総里見八犬士」の最初の挿図です。このほかに八犬士の「仁義八行の玉」や人物について紹介します。
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