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福島県史料情報 第20号(平成20年3月25日発行)

 
 目 次
 『三国通覧図説』
 「三国通覧図説」(山内英司氏文書六一○)は天明五年(一七八五)九月に経世論家の林子平(一七三八~一七九三)によって著された軍事的な地理書です。タイトルにある三国とは日本に隣接する朝鮮・琉球・蝦夷地(現在の北海道)のことを指し、蝦夷地の生活文化についても記述されています。
『三国通覧図説』(山内英司家文書610)
 写真はアイヌの女性がヒグマの子に乳を飲ませている場面です。アイヌの人々にとって生活の糧となる動植物は神様から与えられた恵みと信じられており、自然に対して感謝する風習は日常生活の中に今でも息づいています。特に秋に川を遡上する鮭や冬に捕獲される熊は肉や毛皮を纏って人間の世界にやってきた神様の使いで、人々に恵みを与えた後、その霊魂は神様のもとへ帰ると考えられています。「熊の霊送り」として知られるイオマンテはこの自然観を儀式化した行事で、子熊を神様の使いに見立てて、歌や踊り、特別な料理で盛大にもてなした後、餅や団子などの土産物を持たせて、霊魂だけを神様のもとへ送り返します。イオマンテで神様の使いとなる子熊は村の中で大切に育てられますが、この風習は「三国通覧図説」が刊行された十八世紀にも存在していたことがわかります。イオマンテに関する挿絵は、東京国立博物館に収蔵されている「蝦夷島奇観」が有名です。著者の秦檍磨(一七六○~一八○六)は江戸幕府の官僚で、蝦夷地での任務が長くアイヌの生活を精密に描写した記録画を残しています。
 「三国通覧図説」の著者・林子平は仙台藩ゆかりの人物で、ロシアの勢力南下に対抗するために海軍創設、江戸湾防備、蝦夷地の開発などを主張しました。天明六年(一七八六)五月には兵書「海国兵談」を著しましたが、寛政四年(一七九二)五月に江戸幕府から在所蟄居を命ぜられ板本・製本ともに没収されました。
(小暮伸之)
  
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 簿冊と番号
 福島県庁文書の簿冊には、複数の番号が付けられている。「明治・大正期の福島県庁文書」(以下「明治・大正期の―」)を例に取ると、まず出納用の「請求番号」、続いて県庁の書庫にあった頃の配列を示す「書架番号」、そして現用段階の分類記号にあたる「書類番号」の三種である。
 このうちの書類番号は、官第一号・議第二号のように漢字一文字と号数を組み合わせたもので、別名「文書標目」とも呼ばれている。福島県の文書管理方法の詳細が明らかでない現状において、この書類番号は、文書が現用時にどのように扱われていたかを探る重要な手がかりといえよう。
 明治二十六年の「文書整理規程并文書標目」(「明治・大正期の―」F二二一所収)によると、当時の県庁では、文書を次の十一部門に分類して管理していたようだ。

 ・官 官房ノ事務ニ関スル書類

 ・議 県会其他会議ニ関スル書類

 ・郡 郡町村ノ行政及経済ニ関スル書類

 ・庶 他ノ主管ニ属セサル事務ニ関スル書類

 ・土 土木ニ関スル書類

 ・地 地理ニ関スル書類

 ・学 学務ニ関スル書類

 ・農 農工商ニ関スル書類

 ・兵 兵事ニ関スル書類

 ・戸 戸籍ニ関スル書類

 ・会 会計ニ関スル書類


『官番号を持つ簿冊』
(「明治・大正期の県庁文書」F328)
 ちなみに、同年の県庁は、知事官房・内務部第一課(議事係・郡町村係・庶務係)・同第二課(土木係・地理係)・同第三課(学務係・農務係・兵事係)・同第四課(検査係・国費係・県費係)・警察本部・収税部・監獄署の一官房三部一署体制であり、右の十一部門は知事官房と内務部の主要業務に対応している(「戸籍」は第三課兵事係、「会計」は第四課の担当)。
 このほかにも、「明治・大正期の―」には、社・蚕・山・林・商を冠した書類番号を持つ簿冊が存在している。これらは、明治二十六年の「文書整理規程并文書標目」には見られない分類で、同年以降の県庁機構改変とそれに伴う文書標目の変更によって新たに設置された書類番号と考えられる。   
(山田英明)
 
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 道路元標を歩く1
 道路元票は、路線の起点・終点または主な経過地を表示する標識である。旧道路法では、各市町村に一個ずつ設置することとされていた。設置場所は府県知事が指定することとされており、大半は市町村役場の前か、市町村を通る主要な道路同士の交叉点に設置されていた。道路の起終点を市町村名で指定した場合は、道路元標のある場所を起終点としていた。
 現行の道路法では、道路元標は道路の附属物とされているだけで特段の規定はなく、道路の起終点は道路元標と無関係に定められている。道路元標の設置義務がないため、取り壊されたり、工事などでいつの間にかなくなってしまった道路元標も少なくない。

『官報 第三〇一五號』 大正十一年八月十八日

省令

◎内務省令第二十號
 道路元標ニ関スル件左ノ通定ム 大正十一年八月十八日 内務大臣 水野錬太郎

 第一条 道路元標ニハ石材其ノ他ノ耐久性材料ヲ使用スヘシ

 第二条 道路元標ハ別記様式ニ依ルヘシ

 第三条 道路元標ハ其ノ位置ヲ表示スル為道路ニ面シ最近距離ニ於テ路端ニ之ヲ建設スヘシ

 第四条 特別ノ事由アル場合ニ限リ前二条ノ規定ニ依ラサルコトヲ得

 附則 本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス 別記様式

 備考

 一 表面ニ市町村名ヲ記載スルコト能ハサル場合ハ側面ニ之ヲ記載スルコトヲ得

 二 前図ニ示ス寸法ハセンチメートルヲ単位トス

 福島市内には、旧福島町・旧渡利村には表示と解説文が、旧佐倉村・旧鎌田村・旧野田村などには石柱が確認される。
(高橋信一)
 
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 『福島新聞』の発行形態
 『福島新聞』は、『福島民報』『福島民友新聞』が創刊される以前の明治前期においてはその史料的価値は極めて高い。また、同紙は自由民権運動で著名な苅宿仲衛や衆議院議員の朝倉鉄蔵など、当時の政治家や地域名望家の多くが購読していた新聞としても知られている。
「郵便消印」
 明治二十年(一八八七)前後の『福島新聞』は福島県岩代国信夫郡福島町字旧郭内八番地にあった福島新聞社より発行され、当時の持主兼印刷は菅原道明、編輯は安達憲忠であった。同紙は活版印刷、一枚二つ折り四頁編成である。二つ折りにした状態での法量は縦が四六㎝、横が三四㎝で、現在の新聞より一回りほど小さい。紙面の構成は、一から三頁が官報・外国電文・雑報・寄書・社告など、四頁には物価・相場・広告が掲載されている。附録としては、県報・町村公報・大日本帝国憲法・石版刷・広告などがあった。購読料は、一枚一銭、一ヶ月二十五銭、郵便税は一ヶ月二十五銭であり、駅逓局より第三種郵便物と認可されていた。
 明治期の『福島新聞』の休刊日は、同紙の告知によると毎週月曜日と大祭(祭日)の翌日であることが判明する。これは現在残されている『福島新聞』を当時の暦と丹念に照合すると、ごく一部の例外はあるものの歴史的な事実として確認できる。つまり、これは日曜日と祭日が定休日であったことを物語っている。
 それでは、新聞は前日の何時頃までの出来事を報道しているのであろうか。換言すれば、これは入稿の締切は何時頃であるかということである。図版1は、明治四十二年六月五日付『福島新聞』に残されていた第三種郵便の帯封に捺されていた消印である(朝倉一郎家文書八三三号)。左の消印によれば、この新聞は明治四十二年六月四日午後七時から同九時の間に福島局に持ち込まれたものであることが知られる。つまり、新聞は遅くとも午後八時頃には刷り上がっていないと、これは不可能である。管見によれば、紙面枠内の本文には概ね午後五時以降の情報は記載されておらず、欄外の電文であっても午後九時以降の情報が掲載されていることはない。始めに枠内の活字が組上がり、その後の情報は欄外へという手順であった。この新聞は飯野局に翌五日のイ便で届けられ、伊達郡飯野区立子山村の朝倉鉄蔵の許へ配達されたのである。
(渡辺智裕)
 
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 ふくしまの郡役所2
 前回に引き続いて、ふくしまの郡役所を紹介する。郡は、明治十二(一八七九)年一月二七日に、県の布達で「郡ノ事務取扱所ハ戸長役場ト可称此旨布達候事福島県令山吉盛典」とあり、戸長役場と同時に設置された。当初の郡役所の位置を次のように定めている。信夫=福島、伊達=保原(現在の伊達市)~桑折、安達=二本松、安積=桑野~郡山、岩瀬=須賀川、南会津=田島(現在の南会津町)、北会津=若松、耶麻=塩川(現在の喜多方市)、河沼=会津坂下、大沼=会津高田(現在の会津美里町)、東蒲原=津川、東白川=棚倉、西白河=白河、石川=石川、田村=三春、菊多・磐前・磐城=平、楢葉・標葉=富岡、行方・宇多=相馬の18郡役所が置かれた。なお、東蒲原郡は明治十九(一八八六)年に新潟県に編入された。
 伊達郡役所は、岩代国伊達郡保原村字宮下に置かれ、伊達郡内全域(伊達市・福島市の一部・国見町・桑折町・川俣町・飯野町)に及んだ。
 福島県庁文書のなかに『郡役所建物敷地等調』(F一一二八)という表題の簿冊がある。この公文書は、明治十二(一八八〇)年十二月十七日調査の「伊達郡明細表」があり、「伊達郡全図・伊達郡役所敷地建之図」がついている。

【敷地種坪数】民有地第一種 四百十六坪

【廰舎建坪数】五拾壱坪

【倉庫建坪数】六坪

保原村一村共有地ヲ 用ス借家料壱ヶ月七円

 【管区沿革】・【人口】・【反別】・【地価】・【現住戸数】・【本籍戸数】・【寄留戸数】・【郡長】・【課名】・【郵便局】・【通運継立所】・【物価】などの項目に整理され記載されている。
 南向き門から玄関に到り、建物となる。建物は三階建て、明治十二年に一階部分が増築されている。内部には、窓・障子・テーブルの配置が記載されている。その後、明治一六年十月に疑似洋風建築の伊達郡役所が桑折町に建設された。
 (高橋信一)
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 「近世画人の植物誌」によせて
 三月十九日より、平成二十年度収蔵資料展「近世画人の植物誌」が当館展示室にて開幕いたしました。展示のコンセプトは、近世画人の優れた自然観察力と描写力で、キーワードは「見る・描く」です。
「画本福寿草」
 展示した『草花略画式』や『画本福寿草』などに描かれた植物画を見ると、当時の画人がいかに植物を詳しく観察しているかがうかがえます。優れた写実性は、そのモデルをいかに見るかにかかっています。デジタルカメラやスキャナーなど無い江戸時代、植物の観察は、人間の肉眼でしかなく、「見る力」は現代人の比ではなかったのではないかと考えられます。
 ここに『画本福寿草』を例に挙げましょう。大岡春川が宝暦五年(一七五五年)に著した本草書(植物図鑑)ですが、描かれた植物画は白黒二色刷りにもかかわらず、現代でも図鑑として使用に耐える描写がなされています。掲載された植物から数例あげて紹介いたしましょう。
 コウホネの画は、葉柄が長く耳形の基部をもつ水上葉や、花柄・萼片・柱頭盤などの花の特徴が正確に描かれています。コウホネの花は花弁がなく、萼片が一枚ずつ離生しており、柱頭盤を中心に放射状に並ぶ雄しべの姿が特徴ですが、その姿が見事に描かれております。
 シャガの画は、花びらが内・外に分かれ、縁にいちじるしい細歯牙が付く外花被片と内花被片、柱頭の附属体の姿が正確に描かれ、着色なしでも、充分に花の雰囲気が伝わってきます。
 キンポウゲの画は、茎に開出毛が見事に描かれ、深裂する茎葉や長い花柄と五個の花弁や、花弁が落ちた子房群の描写もリアルで、一目で種の同定が可能です。
 マムシグサの画は、先端がうねりながら細長く延び筋状の模様がある仏炎苞や直立する附属体からなる肉穂花序や、小葉に分かれる葉の様子が忠実に描かれております。
 このように、江戸時代の画人には、植物の各部をよく観察して、当時の知識(本草学)なりに理解を深めて描く力が備わっていたことがわかります。
 今回の展示では、他に熊坂適山や蠣崎波響の掛軸や春蘭竹図が描かれた屏風、時代は明治に下りますが牧野富太郎校訂・村越三千男画・高柳悦三郎編の『普通植物図譜』、幸野楳嶺の『絵本亥中之月』なども展示しております。
(山内幹夫)
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