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福島県史料情報 第22号(平成20年10月25日発行)

 
 目 次
 『福島県地誌略 上』
 現在、当館では「“まなび”の中のふくしま」展を開催している。この展示では、教育や読書といった“まなび”の場で、福島県がどのように取り上げられていたのかを、明治時代から第2次世界大戦後の間に刊行された教科書や副読本など約70点によって紹介している。
「福島県地誌略 上」(庄司家寄託文書Ⅱ3327)
 展示資料の大半は、東京で編集・刊行され全国で使用されたものであるが、なかには福島県内で作成され、福島県内だけで利用されたものも存在する。たとえば、写真の『福島県地誌略 上』(庄司家寄託文書Ⅱ3327)である。
 これは福島県の教育行政を所管する県学務課が編纂した地誌で、例言に「簡易ヲ主トシ、記憶ニ便シテ、以テ、県下、小学ノ需要ニ供ス」とあることから、初等教育用の教科書であることが分かる。そこには、現在の中通りに当たる地域が「田圃沃壌多ク戸口滋息、蚕桑ノ利ニ富メリ」、東部(浜通り)が「其山東沿海ノ一帯ハ、稍平坦ニシテ、魚塩ノ利アリ」、西部(会津)が「人煙随ツテ稀疎」であるが「米穀余リアリテ、其他物産饒カナル」地域と紹介されている。
 ところで、写真の地図に描かれた福島県が、私たちの知る姿とは少し異なっていることに気付かれたであろうか。それは、現在は新潟県に属する東蒲原郡が県域に含まれていることである。これは、同郡が会津藩の旧領であったため、明治維新後に若松県の管轄とされ、明治9年(1876)の三県合併を経て、福島県に引き継がれたことによっている。その後、同郡は、県庁のある福島町から遠いという理由から、明治19年(1886)に新潟県に移管され、現在に至るのである。
(山田英明)
  
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 地籍図に見る神指城2
 今回は、神指城跡のうち、本丸と呼称されている内郭部分に注目したい。
「地籍図に基づく神指城の内郭部」
 内郭の周囲が濃い色に染まっているのは、土塁の部分が林もしくは草地になっていたからである。この土塁は、一見すると方形にも見えるが、各辺の中心点付近において折れを伴っており、横矢掛かりを設けていたことがわかる(東辺の横矢は一部現存する)。
 さらに、南辺を除く3辺には土塁が途切れる部分があることから、3方向に虎口が設計されていたことがわかる。北辺と西辺の虎口は道によって結ばれているが、土塁の累線とは無関係な曲線を呈している。これは、道のルートを規制するような起伏や構造物が存在しなかったことを示唆する。
 ただし、郭内の北西部には、途中で行き止まりになる道があり、畑の区画も土塁の方向と一致している。この部分になんらかの構築物を設けようとしていたためと思われる。
 同様のことは南東隅についても指摘できる。南東隅は他の部分と比較すると、ひときわ草野部分が広くなっており、ここが高台であったことを示唆している。米沢城において上杉謙信廟が設けられたのが本丸南東隅であったことを考慮すると、そうした施設が予定されていた可能性も皆無ではない。
 内郭を取り囲む堀の掘削も不完全である。北東隅周辺は明らかに掘り残されており、東辺と西辺に見られる土橋も不整形で、掘り残しによるものと見なすことができる。これは、石垣用の石材の搬入経路を意図的に掘り残して作業していたことを示唆する。
 これらのことから、神指城跡は、その歴史的意義はもちろん、近世初期の築城過程を知ることができる貴重な城跡と認識することができるのである。
(本間 宏)
 
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 古文書に記された古墳2
 『二十四輩順拝図会』「後篇四 陸奥・出羽・下野」(山内英司氏文書141)の高田専修寺に関する記述の中には元仁2年(1225)、親鸞が53歳の時、1人で下野国大内荘に赴いた時の出来事が書かれています。親鸞が一夜の宿もなく石(「般舟石(いわふねいし)」)の上で野宿をしていると、1人の天童(明星天子)が夢に現れ、南方の水田を指さして「この地は霊地であるから伽藍を建造し、柳と菩提樹を植えるように」と告げられました。その後、水田の水は枯れて小高い丘が現れたため、当地は高田という地名で呼ばれるようになったと記されています。
「二十四輩順拝図絵」明星天子の部分
 この小高い丘が古墳かどうかは定かではありませんが、現在の高田地区から西へ約1.5Km離れた鹿八幡宮周辺の田園地帯には、前方後円墳1基、円墳3基からなる鹿古墳群が存在します。現在の高田地区に古墳は見られませんが、鹿古墳群と同様の地形であり、距離的にも近いことからかつて古墳が存在した可能性は十分にあります。また、親鸞がその上で野宿したと伝えられる「般舟石(いわふねいし)」は横穴式石室の構築材を連想させる呼び名です。
 一般民衆が見た古墳に関する記述は、徳川幕府が文化・文政年間(1804~1829)に編纂した『新編武蔵風土記』にも出てきます。現在の東京都足立区北部に存在したと思われる古墳に関する記述で、「伊興村白旗塚 此塚近寄バ咎アリトテ、村民畏テ近ヅカザルニヨリテ、祠ハ廃絶ニ及ベリ。又塚上ニ古松アリシガ、後立枯テ大風ニ吹倒サレ、根下ヨリ兵器共数多出タリ。時ニ村民来リ見テ、件ノ兵器ノ中ヨリ、未鉄性ヲ失ハザル太刀ヲ持帰テ家ニ蔵セシガ、彼祟ニヤアリケン。家挙リテ大病ヲナヤメリ。畏レテ元ノ如ク塚下ヘ埋メ、シルシノ松ヲ植継シ由」とあり、当時古墳が神秘的な存在、畏怖の対象として認識されていたことを窺わせます。
(小暮伸之)
 
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 松平容保の義捐金
 今年は明治21年(1888)の磐梯山噴火から120周年という節目の年であった。新たな史料の発見が偶然性に左右される以上、既知の史料をいかに深く読み込んでいくかが今問われているのである。
「図1 福島県庁文書 F1507~1518号」
 その具体的な一例として、旧会津藩主松平容保の磐梯山噴火義捐金の問題を取り上げてみる。これは、磐梯山噴火後に容保が猪苗代や若松を慰問に訪れたことはこれまで知られていたが、その義捐金については、全く論じられてこなかったからである。
 当館には磐梯山噴火義捐金に関する簿冊(F1507~1518号、図1)が12冊保管されており、これらの公文書には延べ人数で7万人を超える義捐金寄附者の名前が掲載されている。従来史料の性格が全く考慮されずに利用されてきたが、私見では史料の構造分析から4段階の簿冊に分類されるとみられる。
 当時の容保は日光東照宮宮司と東京府皇典講究所監督を兼務し、東京に住んでいた。8月14日、耶麻郡長瀬高龍人は福島県知事折田平内へ「磐梯山噴火罹災者義捐金并人名報告書」を提出している。これには、金額、使用費途、通知または出頭月日、納入月日、族籍・官位・勲等、氏名が記載されている。ここに容保の名が初めて公文書上で確認され、容保は罹災者救助のため8月3日に義捐金200円寄附を申し入れ、同6日に耶麻郡役所のあった喜多方町で納入されたことになっている。既に容保は7月23日の猪苗代入りの段階で、非公式的に義捐金寄附の意思表示をしていた。
 8月14日付で耶麻郡役所が福島県第一部庶務課へ依頼した公文書では、容保ら5名に関してはまだ『福島新聞』にその名が掲出されていないため、宜しく取り計らって欲しいというものであった。このことを受け、容保の名は「華族(旧藩主)」と肩書されて8月24日付『福島新聞』に掲出された。なお、この事例から当時の耶麻郡役所では同紙を購読して、その紙面を丹念にチェックしていたことが知られる。
 当時の200円は公務員の初任給で換算すれば現在の800万円ほどに当たり、破格のものであった。これに呼応して、9月5日には林房之助・小林歳重ら旧斗南藩士106名が16円50銭の義捐金を福島県へ寄せている。自らの厳しく困難な生活にもかかわらず、彼らの会津に寄せる想いは不変であった。
(渡辺智裕)
 
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 野出蕉雨と『日誌』
 筆者は折に触れて公文書と福島県の近代美術との接点について探ってきたが、公表するに値する史料をいくつか蓄積することができた。これは公文書を歴史学から解き放ち、史料保存の理念を多くの人々に伝えたいと願っているからである。
「図1 福島県庁文書 F105号」
 当館には『日誌』と題された簿冊が、明治9年(1876)の三県合併以降から大正元年(1912)までのものでも37冊ほど保管されている。これらは「福島県庁文書」のシリーズのひとつで、その題名から福島県の業務日誌を連想する向きも多いが、その内容は福島県職員・教員・神官・僧侶に関する任免、異動、給与額、県外出張、懲戒などであり、当時の役職とともに年ごとに整理・記録・浄書された公文書である。
 周知のように、明治・大正期における県内の美術界では図画教育に携わった人々が大きな役割を果たしていた。その多くが公立学校の図画教師を務めており、『日誌』からその官歴や公務出張などの動向を詳細に追うことが可能である。
 近代の会津を代表する日本画家として野出蕉雨(平八、1847―1942)はよく知られた存在である。彼の作品や年譜については、喜多方市美術館編集『野出蕉雨展』図録が現在における到達点である。幸運にも公文書の中に蕉雨の年譜を埋める新たな史料を見出したので、先学の「落ち穂拾い」の誹りは免れ得ないが、広く紹介することにしたい。
 これまで蕉雨が明治37年3月に福島県立工業学校(現在の福島県立会津工業高等学校)の教員となったことは知られていたが、その職名・採用日・退職時期については原史料からは裏付けられていなかった。
 図1は明治37年の『日誌』(F105号)である。これによれば、明治37年3月25日付けで野出平八は福島県から臨時福島県立工業学校図画科の教授嘱託に任じられ、月手当は15円であったことが判明する。この時、蕉雨は56歳である。しかし、同年7月19日付けでその任を解かれ、在任期間は僅か4ヶ月足らずであった。『会工35年史』によれば、開校当初の県立工業学校では染織・漆工・窯業の3科が存在したが、蕉雨は窯業科の絵画担当であったという。『日誌』によると蕉雨に代わって鈴木成夫が同7月19日付けで同校の教諭に任じられ、窯業科の図画実習を担当することになった。
 (渡辺智裕)
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 葛尾村再発見プロジェクト歴史講座 「郷土史料から葛尾の歴史を探る」
 9月25日に、NPO法人あぶくま地域づくり推進機構と葛尾村の協働による「葛尾村再発見プロジェクト」の一環として、「郷土資料から葛尾の歴史を探る」というタイトルで歴史講座を開催した。当講座では、主に葛尾大尽や、それと関連する近世製鉄の話をした。主な内容は次のとおり。
 阿武隈山地では、江戸時代にたたら製鉄が行われていたことが文書記録に残っている。享保16年(1731年)、相馬藩主相馬尊胤の命によって藩の学者である富田高詮が著した『奥相秘鑑』において、天和元年(1681年)に「鉄ハ出申候 標葉郡内 野川三千貫目」と、葛尾村からの産鉄を江戸表に報告した記載が残されている。当時の砂鉄を原料としたたたら製鉄は前記『奥相秘鑑』において「是ハ年ニヨリ過不足有之候」とあるように一定した生産量が保証されたものではなかった。
 その後、文化年間以降(1804年~)、砂鉄生産の不振を補うために、相馬藩は荒鉄を南部藩から買い入れ、大鍛冶により延鉄を作り、流通させることとなった。請戸の鉄問屋志賀七十郎は、南部野田鉄山の経営者中村家の委託鉄問屋として、野田荒鉄を文化~天保年間に40数万貫、川内・古道・塩浸・津島・田代あたりの業者に売り捌いていた。これは、請戸志賀七十郎の仕切書目録の中における飛脚の出し先に関する記録から推定される。荒鉄を精錬する場所は「大ホド」と呼ばれていたが、相馬領の北標葉郡や三春領の古道、棚塩領の川内には大ホドを操業する業者がいたと言われている。  天保年間には、津島の菊次郎という者が大鍛冶の火窪に改良を加え、水炎土というものを開発し、延鉄生産の時間を短縮して、生産量の増大に至ったとされている。
 幕末頃に鉄の売買に参加した鉄商人として、野川村松本亀太郎、葛尾村松本三九郎、鉄屋松本十右エ門、上移村鉄屋松本藤左エ門、岩井沢村渡辺周三郎などの名前が三春藩の記録に残されているが、大半が松本姓で、荒鉄から精錬した延鉄の流通を葛尾大尽一族が仕切っていたことが推定される。このことによる収益が葛尾大尽の経済基盤を大きく支えていたことは容易に推測できる。
 その後、洋式高炉が導入されて、大量の鉄生産が可能になると、阿武隈山地におけるたたら製鉄や大ホドによる延鉄生産も衰退し、幕藩体制の崩壊により、葛尾大尽も衰退してゆくことになった。
(山内幹夫)
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