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福島県史料情報 第23号(平成21年2月25日発行)

 
 目 次
 「二十四輩順拝図会」
 現在の秋田県にかほ市(旧由利郡象潟町)には、江戸時代の享和年間まで「象潟」と呼ばれた九十九島・八十八潟からなる風光明媚な潟湖が存在していました。元禄2年(1689)6月頃には松尾芭蕉がこの地を訪れ、「松島は笑ふが如く、象潟は憾むが如し」と評し、「象潟や 西施が ねぶの花」という句を詠んでいます。象潟の風景を古代中国の有名な美女(西施)の寝顔に例えた名句です。
「二十四輩順拝図会」(山内英司氏書籍141)
 写真はその江戸時代頃の象潟の多島風景を描いた挿絵で、文化6年(1809)10月に刊行された『二十四輩順拝図絵 後篇 陸奥・出羽・下野』(山内英司氏書籍141)の出羽国真光寺に関する記述の中で紹介されています。この史料は浄土真宗の有力寺院とその近辺の名所図絵で、今風に言うと浄土真宗の開祖親鸞高弟24人にゆかりのある地を巡礼するためのガイドブックになります。象潟に関する説明はわずか8行程の短いものです。そこには「象潟の眺望は松島(現宮城県)に劣らず、大町の湊から舟を出して島巡りをしながら美景を眺めると壮観である。象潟と松島は日本を代表する景勝地である。」と記されています。一方、挿絵は見開き3頁にわたって載せられており、文章では伝えきれない景観の素晴らしさを読者に伝えようとしているようです。写真は真光寺と付近の町の様子を描いた2頁目で、往来する人々や船着き場等が描かれています。
 象潟は文化元年(1804)の大地震によって潟湖の海底が隆起したために陸地化し、水田の中にもともと島であった大小102の小山が点在する現在の地形に変わりました。戦後の干拓事業による水田開発の波に飲み込まれそうにもなりましたが、地元の人々の保存運動が効を奏して、国の天然記念物となり、鳥海国定公園の指定地として現在にいたっています。
(小暮伸之)
  
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 地籍図に見る神指城3
 今回は、神指城跡の二ノ丸と呼ばれている外郭のうち、南東の部分に注目したい。
「神指城二ノ丸南東の地籍復元図」

 右の図は、明治15・18年(1882・1885)の地籍図を合成したものである。図に示した部分で、濃い色に染めた範囲は、林もしくは草地になっていた部分で、その多くは土塁と考えられる。中間的なトーンに染めた範囲は畑地もしくは官有地で、もっとも薄いトーンは水田を示している。
 前号では、本丸跡をとりまく水田の多くが内堀跡と考えられることを紹介した。しかし、二ノ丸跡の周囲については、図に見られる通り水田の範囲が広く、外堀跡のラインを推定するためには、もう少し詳細に地籍図を検討する必要がある。
 そこで注目したいのが、図中に示した①から⑤の部分である。①では、水田の範囲の下(南側)に畑地が広がっており、楕円枠の上(北側)の草地部分との間(水田部分)を外堀跡と見なすことができる。
 この部分を基準にすると、外堀の南北幅は45~50メートル程度であったと想定できる。そうした見方で目を東側に転ずると、②から⑤に見られるように、帯状に伸びる官有地(濃いめのトーンの部分)が、水田の中に点々と存在することがわかる。これは、いずれの地権者にも属さない水田と水田の段差部分が官有地となっていたものと考えられ、この段差が外堀跡の南辺だったと推定することができる。このことは、平成2年に実施された部分的な発掘調査でも立証されている。
 最後に、⑥の部分に注目したい。南北方向の土塁が一直線になっていないため、将来的には虎口(こぐち)を構築する予定だったものと推察される。しかし、東西に走る道が石材の搬入路であったため、虎口の整備が後回しになったまま、築城が中止されたものと考えることができそうである。
(本間 宏)
 
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 逃散する百姓と直江兼続
 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦に敗れた上杉景勝は、徳川家康によって翌年8月16日に会津から米沢へ移封された。その石高は120万石から30万石へと大きく削減され、景勝の政治的立場も有力な豊臣大名から数ある近世外様大名の1つへと変質した。移行期のこの時代は「大開墾の時代」ともいわれ、米沢藩でも信達地域の中小河川流域で在地の民衆層を大量に動員して井堰や堤を構築した。これにより領内の荒地開墾・新田開発を積極的に進め、耕地の安定化を図ったのである。
「慶長8年2月28日付直江兼続知行充行状」
 慶長8年2月28日、米沢藩執政の直江兼続は信達四郡役の佐藤新右衛門に対し、伊達郡西根郷内の逃散百姓を懸命に還住させたことの恩賞として100石を与え、今後とも百姓衆が米沢藩の支配に従うように尽力することを命じた(栗花信介家文書)。これに先立つ24日には、福島奉行兼福島郡代の平林正恒ら3名の連署覚により新右衛門は西根郷内16ヶ村の肝煎役に任じられたが、これは先の兼続の文書と対を成すものである。これらの村のうち13ヶ村は現在の伊達郡国見町内にあたり、伊達政宗の仙台藩領に隣接し、西根郷自体がいわば「境目の郷」ともいうべき性格の地域であった。
 破格の100石という石高から考えれば、単なる欠落や走り百姓ではなくて逃散百姓が多数発生していたとみられる。前年の不作による飢饉、開発に伴う負担増、旧伊達氏領であることなどがその理由として挙げられよう。米沢藩と仙台藩の間で人返し協定が結ばれるのは、慶長16年5月を待たなければならなかった。旧暦2月は現在の3月で、春耕開始の直前にあたり、辛くも逃散百姓の還住に成功した西根郷では既耕地の耕作に漸く目途が立ったのである。
 なお、兼続が文書を出すのは信達四郡役までであり、それ以下の肝煎層に対しては平林正恒が文書を発給することになっていた。
(渡邉智裕)
 
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 塙の鍛冶2
 前田村(現在の塙町前田)で始まった鍛冶業は、川下村、北野村に「御仲間衆」と呼ばれる同業者ができたことで、以後この3村が中心になり発展しました。各村では村役人を務める有力者や鍛冶業者が経営を主導し、多くの村人を動員して農閑期に鍛冶を行っていました。
鍛冶屋古来旧法(青砥和夫家文書397)
 青砥和夫家文書397「鍛冶屋古来旧法」は延享5年(1748)に鍛冶業者の間で申し合わせた規約について書かれています。この史料によると、鍛冶の製造期間には、春山、秋山、冬山の3期間があり、春山は正月8日から4月7日までの92日間、秋山は仕付仕舞から9月8日まで、冬山は取納仕舞から12月26日の間でした。仕付仕舞と取納仕舞は田植え終了と刈り入れ終了のことかと思われます。鍬型の製造は「御田地作間ニ打来」とあるように、農繁期をさけた期間に行われたようです。農繁期をさけたのは、鍛冶手伝いの職人達が農業従事者であったばかりでなく、鍛冶屋そのものが農業との兼業であったからです。ただし、「近年猥リニ罷成リ旧法ケ間敷各方年中通炉多被打候」とあるように、上記3期間外にも鍛冶業を続ける者もいたと思われますが、農業との兼業を離れて鍛冶専業になったのではなかったようです。この他、鍬型の目方制限と違反鍬型の没収、鍬型の値段決定と違反者の荷物差し押さえ、鍛冶職人の新規雇入れ方などについて書かれています。
 原料の銑鉄は南部領から常陸国平潟港へ陸揚げし、平潟街道を駄送して生産を行っていました。青砥和夫家文書406「相窮申仲ヶ間定證文之事」は明和6年(1769)に鍛冶屋仲間で相談して取り決めた事について書かれた証文です。この史料には「平潟銑問屋江南部より鉄船入津之節者平方より早速飛脚可参候間、山本送状相添銑高不残惣炉割ニ可仕候」とあることから、この頃、平潟港から原料の南部銑鉄を入手していたことがわかります。銑の仕入れは、鍛冶業者仲間で仕入金を調達して銑を購入し、後から炉数に応じて代金を徴収しました。
(小暮伸之)
 
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 公文書と割印
 当館に収蔵されている行政文書の中に、「明治期福島県地籍帳・地籍図・丈量帳」(県重要文化財)というシリーズがある。これらは、明治10年代後半から同20年代初頭にかけて実施された地籍調査の際に作成された台帳で、その当時の土地の所有者や形状、大きさが記録されている。
「地籍帳」と「割印」
 通常、土地に関する資料としては、法務局に備えられている登記簿や土地台帳が用いられるが、それらが欠落している地域についてはこの「明治期福島県地籍帳・地籍図・丈量帳」が代用されることが多い。そのため、当館の収蔵資料の中でも、特に利用頻度が高いシリーズである。
 ところで、そのうちの地籍帳に、写真(「地籍帳」行方郡上太田村)のような上半分だけで途切れた朱印が存在している。この奇妙な朱印は、「割印(わりいん)」と言い、地籍帳の正本と副本を照合した際に、その証として両者にまたがって押捺されたものである。
 実は、正本にあたる「明治期福島県地籍帳・地籍図・丈量帳」は、県庁での保存の過程でかなりの欠本が生じたと言われ、地籍帳が存在していない地域も少なくない。もし仮に、それらの副本が現存し、正本の欠落部分を補うことが可能ならば、史料群としての本来の姿を復元できるだけでなく、利用者にとっても大きな助けとなるであろう。
 それでは、地籍帳の副本は、割印を押された後、どのように扱われたのであろうか。地籍調査にあたって村々に示された「地籍取調順序」(「明治・大正期の福島県庁文書」1867所収)の第10条には次のように記されている。
〈地籍帳、二タ通リ相製シ差シ出スベシ。之ヲ調査、誤謬ナキニ於テハ、之ニ割印ヲナシ、一ト通リハ本県ニ相備、一ト通リハ下戻スモノトス〉
 この一文から、地籍帳は、割印を押された後に一部が当該村へと返却されたことが分かる。つまり、副本は、現存しているとすれば、各村々の役場文書や区有文書に含まれている可能性が高そうだ。地籍帳の副本の所在についてご存知の方は、ぜひ当館までご連絡ください。
 (山田英明)

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 歴史資料館の1年
 平成20年は、公文書館法が施行されてから20周年の年にあたる祈念すべき年であった。また、国際公文書館会議によって、6月9日が「国際アーカイブズの日」に制定されるとともに、国内でも「公文書管理法(仮称)」の制定に向けた動きが強まった年でもあった。
 こうした動向を踏まえ、文書館機能を有する福島県歴史資料館では、「アーカイブズの力」と題する公文書館法施行20周年記念展を開催した(5月27日~8月24日)。公文書のみならず民間機関や個人による記録類などを総合することにより、知られざる歴史の一端が明らかになるという文書館の「力」と、公文書館法の意義についてご理解いただくため実施した企画である。
 また、第20回全国生涯学習フェスティバル「まなびピアふくしま2008」が、10月11日から15日までの5日間、福島県を舞台に開催された。この参加事業として、福島県歴史資料館では、「まなびの中のふくしま」と題する企画展を開催した(9月5日~11月3日)。明治・大正期から昭和の時代にかけての教科書類を展示し、そこに取り上げられた福島と、福島の先人たちを紹介した。
 さらに、「近世画人が描いた植物誌」(3月19日~5月18日)、「新公開史料展」(11月15日~12月27日)、「天地人の時代~ふくしまと直江兼続~」(開催中:3月15日)など、できるだけタイムリーな素材に着目した展示を行うようこころがけた。
 このほか、古文書初心者を対象とする講座「はじめての古文書」(年4回)、伝統文化を伝える「フィルム上映会」(年3回)のほか、歴史資料巡回講習会(7月5日:楢葉町開催)、地域史研究講習会(2月28日)、「ふくしま文化遺産保存ネットワーク」のメールマガジン発行(月1回)、「福島県歴史資料館友の会」の活動(会員約200名)を行い、通常の資料閲覧利用を含む歴史資料館利用者は、2月8日時点で前年度水準を突破している。
(本間 宏)

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 これからの歴史資料館について
 昭和45年9月1日に福島県歴史資料館がオープンして、今年で39年目に入った。
 昭和37年から始まった福島県史編纂や、県内各市町村史編纂の過程で収集された歴史資料の散逸防止と保存・活用の面から歴史資料館の必要性が求められ、福島県の歴史を明らかにする公文書・古文書・文献図書・民俗資料・考古資料の調査研究と収集・整理・保存・公開活用を目的として当館が設置された経緯がある。
 その後、福島県立博物館・福島県立美術館・福島県立図書館が新たに建設され、福島県歴史資料館は、県立博物館・県立美術館・県立図書館などとの機能的分担を明確にして、福島県の歴史を記した公文書・古文書の収集・整理と公開・活用の役割を担う、文書館機能の強化が求められるようになってきた。
 現在、当歴史資料館には200,000点を超える歴史資料が保管されているが、内訳を見ると、福島県庁文書等の行政文書資料が約48,000冊、諸家寄託の古文書資料が約150,000点となっている。
 近年、海上自衛隊の航海記録誤廃棄、C型肝炎治療記録や公的年金記録の不適切な管理等、公文書の取り扱いが問題視され、国も公文書の管理適正化に向けて本格的に動き始めている。
 これまで以上に公文書館の役割が見直され、重要視されているが、福島県の公文書館的機能を担っている当歴史資料館も、県の公文書管理担当部局と力を合わせながら、その機能をより確かなものにしてゆく必要がある。
 県から寄託されている県庁文書の中で公開されている文書は、県重要文化財に指定されている地籍図・丈量帳の他、『福島県史資料所在目録第1集 明治・大正期の福島県庁文書』に掲載されている3,910点であるが、毎年、多くの方々に閲覧・利用されている。
 昭和期以降の県庁文書についても、現在、寄託を受けた簿冊を分解して、ホチキスやテープなどの文書を劣化させる異物を取り除いた後、紙紐で再び綴り直して再編し、簿冊に編纂された文書を1点ずつ目録カードに記録し、その後に文書を一覧する目録データ一覧表を作成して、今後の管理・活用に備えている。
 県庁文書の整理と管理・活用は息の長い作業で、不断に継続してこそ成果が上がる業務である。
(山内幹夫)

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