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福島県史料情報 第26号(平成22年2月25日発行)

 
 目 次
 山崎村絵図
 一昨年は戊辰戦争後140周年を記念したシンポジウムや企画展が県内各地で開催されました。福島県歴史資料館にも当時の資料が収蔵されています。本稿ではその中から、国見町山崎区有文書に収録された『山崎村絵図』を紹介します。
「山崎村絵図」(国見町山崎区有文書321)
 慶應4年(1868)1月3日、京都近郊の鳥羽・伏見の戦いに端を発する戊辰戦争は、同年4月以降県内各地に飛び火しました。同年5月、奥羽列藩同盟の盟主となった仙台藩は信達2郡をその防衛の第一線と考えるに至り、周辺の村々から農民を諸道具、昼食自前で動員し、防塁の築造工事を行っています。『山崎村絵図』には「御陣小屋」と「御築立堡」の場所が書き込まれています。「御陣小屋」は山崎村の南側、滝山地内に造られており、大小3棟の建物が描かれています。兵の駐屯地あるいは指揮所のような施設と思われます。この「御陣小屋」を造る際に造成した敷地の範囲も墨線で表示されており、「塊切地」と書かれています。この「塊切地」の範囲には農民から接収した田畑が面積で表示され10ヶ所程確認できます。「御築立堡」は藤田村地内に造られており、奥州道中の藤田宿(絵図左下の家並)を過ぎて北上する街道を眼下に見下ろす位置にあります。平面形がL字形を呈する土塁が描かれており、これが砲台場と考えられます。街道に接する部分には木柵のようなものも見られます。近隣の石母田地区には硯石砲台場跡、桑折西山城跡には当時の砲台場跡が残されており、これらは仙台藩が築造した大規模な防衛拠点として一連のものと考えられます。
 『山崎村絵図』は「塊切地」の年貢減免措置を願い出るために村役人から桑折代官所に提出されたものと思われます。戊辰戦争が砲台場築造などの後方支援という形で一般民衆をも巻き込んだ総力戦であったことを今日に伝えています。
(小暮伸之)
  
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 慶長五年「白河決戦」論の虚実
 慶長5年(1600)7月、徳川家康軍の会津征討を迎え撃つ上杉景勝軍は、白河南方の革籠原(かわごがはら)を決戦場と定め、徳川軍の正面と側面に大軍を配備し、完璧な作戦で待ちかまえていた、とする説がある。その証拠として、米沢の林泉文庫に残された『白河口戦闘配備之図』と、「革籠原防塁」とされる遺構を引用する歴史図書が多い。
「東国太平記」巻之四の一部
 しかし、『白河口戦闘配備之図』は、「鷹助」、「境明神」、「簑沢口」などの地名が実際の場所とは異なる位置に示されており、同一の峠である「背炙」と「這坂」が別地点に記載されているなど、現地の地理を理解しないまま描かれた図である事が明白である。
 この図に記された軍勢の数と配備地点、谷津田川・革籠原・西原の位置関係、上杉軍の進軍経路や作戦行動の表現は、延宝8年(1680)に成立したと伝えられる『東国太平記』の記述とほぼ一致する。徳川家康の策略には触れず、天下を大乱に導いた悪人が直江兼続と石田三成であるとする姿勢が貫かれているほか、家康に歯向かったのは兼続であり上杉景勝に非はないとする態度も一貫しており、そこに本書の編纂意図を垣間見ることができる。
 このとき、景勝は若松城から動かず、南山口の守備は大国実頼が行い、兼続は郡山周辺で総指揮を執ったことが既に判明している(高橋明2009「会津若松城主上杉景勝の戦い・乾~奥羽越における関ヶ原支戦の顛末~」『福大史学』80号)。また、小山から撤退する家康を追撃しようと進言した兼続を景勝が制止したとする『東国太平記』の逸話も、現存する兼続書状や『歴代古案』『秋田藩家蔵文書』などを見るかぎり、明らかに否定される。
 軍記等の後世史料を扱う場合は、その編纂意図を良く考慮し、慎重な史料批判を重ねなければ、誤った歴史像が構築されてしまう。「防塁」とされる遺構の年代も、現時点では極めて実証性に乏しい。あらかじめ創作された脚本に基づいて遺構を性格付けるのは本末転倒であり、その取り扱いにはくれぐれも留意が必要である。
(本間 宏)
 
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 檜枝岐村絵図について3
 今回は寛政3年(1791年)11月に描かれた『檜枝岐上越国界絵図』について紹介する。
「檜枝岐上越国界絵図」
 この絵図は、只見川と伊南川を軸に描かれている。伊南川の上流には立岩川(舘岩川)が記されているが、舘岩川との合流地点から上流は檜枝岐川と呼ばれている。
 この絵図の特徴は、当時の街道と村落が記されていることで、只見では叶津を経由して上越に向かう八十里越、朝草山(浅草岳)の南側を通る六十里越も明記されている。さらに、唯見(只見)から楢戸方面に折れて、長濱・泉田・大橋・落合などの集落を経て檜枝岐に向かい、さらに尾瀬沼の東側を経て三平峠を越えて上野国沼田領に抜ける沼田街道も記されている。
 沼田街道から分岐する道では、駒止峠を越えて針生村(現南会津町)に向かう道や、鳥居峠を越えて金山谷大芦邑(現昭和村)に向かう道、金山谷野尻村(現昭和村)に向かう峠なども記されている。ただし、金山谷野尻村に向かう峠は現在利用されず、地図にも記されていない。只見川の上流部には、白峯銀山が記されている。
 絵図の上端が上越との国境で、鳥越山や朝草山(浅草岳)などの山々が記されている。さらに叶津の北側には蒲生嶽も記されている。
 尾瀬沼から檜枝岐川に沿った山並みでは、燧嶽、駒嶽(駒ヶ岳)、梵天嶽、朝日山などが記されている。駒嶽は「同山」と記されている峰を含めて四山の連峰的な記載がなされている。
 尾瀬については、尾瀬沼のみの記載で尾瀬ヶ原は記されていない。只見川や檜枝岐川上流部については支流の沢について細かく記されている。
 今回紹介した絵図は、只見・檜枝岐を中心とした地形も具体的に記され、上越や上野方面に至る街道、そして集落が具体的に記され、完成度の高い絵図となっている。
(山内幹夫)
 
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 明治時代の地理教科書
 明治5年(1872)の学制制定当初、海外事情を学ぶ地理の教科書としては、「輿地誌略」「西洋事情」「世界国尽」等、ベストセラーになった一般書が多く使用された。「輿地誌略」は明治3~10年(1870~1877)に刊行された。編著者の内田正雄は江戸幕府の御家人の家に生まれた人物で、オランダ語に優れ、長崎海軍伝習生に選抜された。その後、オランダに留学し、帰国後は明治政府に出仕して文部省に勤務している。「輿地誌略」の挿図には、オランダ留学中に収集した世界各地の写真を模写したものが使用されている。右の写真は、「輿地誌略 巻七」(山内英司氏書籍331)に掲載されたイタリアのミラノ大聖堂の挿図である。世界最大のゴシック建築で、135本の尖塔の先端には1つ1つに聖人像が立ち、最も高い塔には聖母マリア像がある。当時の写真を模写しただけに仕上がりは精巧である。「西洋事情」(山内英司氏書籍408)は、明治6年(1873)に刊行された。編著者の福沢諭吉は、欧米諸国の実情を視察する機会に恵まれたため、明治時代になってからは多数の翻訳、著作活動を通して欧米文化の紹介に努めている。「西洋事情」は欧米諸国の文化・社会・政治・軍制・経済・倫理等の制度や実態、理念についての一般的な解説に始まり、各国の歴史と現状についての説明が加えられている。「世界国尽」(山内英司氏書籍406)は、明治2年(1869)に福沢諭吉が欧米の地理書を翻訳したものである。全6巻で、本文には大きな草書体の文字が使われていて読みやすく、また五七調の文体はリズミカルで音読に適している。習字の手本としても使えるようになっていることから、子供がこれを手本に読み書きをすると、自然と外国の地理風俗も覚えてしまえるように工夫されている。多くの日本人は、明治時代以降の近代教育を通じて初めて海外事情に触れることができた。教科書に掲載された挿図等は、その理解を深めるのに役立ったのは勿論のこと、日本と外国の町並みや建物、都市の規模、産業や文化の違いを強烈に印象づけることにもなったはずである。
「輿地誌略 巻七」
(小暮伸之)
 
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 「害ナス」鳥獣
 明治16年の福島県庁文書『有功有害鳥獣調』(F3101)について、前号では「有功」鳥獣を中心に紹介しましたが、今回は「有害」鳥獣についてです。
有害獣「獺」の記録
 有害とされた鳥の代表格は「烏」、「雀」、「鳩」などで、その理由は田畑の作物を荒らすことにあります。有害獣の筆頭は「鼠」です。その性格は「狡猾」で、害の強弱は「最強」、駆除の見込みはなく、「猫ヲ飼ヒ家屋等ノ害ヲ防クノミ」とあります。利用方法の項には、「死屍ヲシテ狐狸ヲ獲スルノ餌ト為スアリ又鬚ヲ以テ筆ヲ製ス糞ハ肥用トス」と記載されています。「?鼠(モグラ)」も害獣の筆頭格に挙げられ、その性質は「痴鈍」とあります。「狐」や「狸」、「兎」も有害獣に挙げられています。その性質について、「狐」は「狡猾」、「狸」は「愚」、「兎」は「温和ニシテ幽邃ヲ好ム」とされています。昔話のイメージそのままです。
 評価が分かれているのは「猪」です。食べて美味しいので「有功」とした郡と、作物に被害をもたらすので「有害」とした郡とがみられます。その性質は、「猛烈及軽躁」、「疎暴ナリ」です。美味で角や皮の利用価値も高い「鹿」は、有功獣と評価されながらも、その性質は「一牡常ニ数牝ニ交ル」ため、「性淫」とされています。
 害獣の中には、絶滅したニホンオオカミの記載もみられます。「狼」の項目があるのは、21郡のうち、岩瀬郡と東白河郡の2郡だけで、その数はすでに「寡」とあります。
 また、昭和54年を最後に目撃情報が途絶えている「獺・河獺(カワウソ)」は、信夫郡・安積郡など、8郡が報告しています。被害物件の項には、「魚ヲ以テ常ニ食フ・・・其害タル甚シ」、あるいは「夜間田面ヲ匍匐シ稲苗ヲ害スル」とあります。利用目的の項には、「肉食料ニ供シ」、「皮ハ近来帽ト為スモノアリ」、「其皮猟虎(ラッコ)ニ類似スルヲ以テ價貴シ」等とあります。
 オオカミもカワウソも、かつては昔話などに登場する身近な動物でした。身近でかつ「害獣」と評価されたゆえ、絶滅に追い込まれたと言えるかも知れません。
 (今野 徹)
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 招聘された柳田國男
 柳田國男(1875―1962)の手紙が明治38年(1905)度の福島県庁文書(F3368号)に収録されており、その歴史的な背景を踏まえて紹介してみたい。今日、柳田は「日本民俗学の創始者」として広く知られているが、この書簡と県庁文書からは農政官僚としての柳田と福島県との接点が垣間見える。
 その公文書の表題は『商業、工業、美術等奨勵保護及各組合又ハ各會ニ関スル書類』というものである。封書の宛名は「福嶋縣廰菊池事務官」で、当時の福島県第三部長菊池武一のことである。また、封書の発信者は「法制局柳田國男」で、弱冠30歳であった法制局参事官柳田國男その人である。消印によると、封書は明治38年7月27日に東京丸之内局管内から投函され、翌28日に岩代福島局へニ便で到着し、29日に福島県庁へ配達された。
 内容は、福島県が7月25日付で柳田に産業組合講習会の講師依頼を送ったことに対する回答である。柳田は時候の挨拶で、今年の気候は凶作であった明治35年に似ているが、福島県の夏作は特に悪いとは伺ってはいないと述べている。本題では、講習会講師の件は上司と相談したところ、現時点では同僚の出張や病気療養の状況により8月下旬以降ならば休暇をやり繰りして何とか引き受けられるかもしれないが、不測の事態もあるので日程を確約することはできないと伝えている。
 これ以前に菊池と柳田の間では講習会の根回しがあったが、県側の事情で延期になっていた。柳田は明治33年に東京帝国大学を卒業し、農商務省農務局農政課でこの年3月に公布された産業組合法の普及に力を注いだ。35年に法制局参事官に転じた後も、産業組合法の解説書『最新産業組合通解』を著したり、全国農事会幹事に就任するなど、産業組合法に精通していたため農商務省嘱託として福島県へ出張したのであった。明治38年8月30日に来県した柳田は、9月12日まで滞在し、講習会は9月1日から7日まで福島町で開催された。県側でその事務を担当した小田島琢は、後に『産業組合之大意』を著し、県内で産業組合の普及に努めた人物である。
 柳田は8月31日には体調が回復したことや噴煙を上げる吾妻山の様子を愛妻孝に書き送っている。また、講演の後に実施した調査旅行について『福島県林野実状』という備忘録を残している。柳田が『遠野物語』を世に問うのはこの講演から5年後のことであった。
(渡邉智裕)
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 歴史資料館の1年
 平成21年は、公文書管理法が制定され、公文書の保存と活用に関する関心が一段と高まった年でした。福島県に関する歴史的公文書を保管する当館の役割は、今後ますます重要視されるものと思われます。本年は、公文書の整理体制を強化し、昭和期の県庁文書の整理を重点的に実施しました。今後も福島県と協議しながら、これらの公文書整理を継続していく予定です。
 11月18・19日の2日間においては、当館に事務局を置き、全国歴史資料保存利用機関連絡協議会の第35回全国(福島)大会が、開催されました。「わたくしたちのアーカイブズ~公文書と地域資料~」の大会テーマのもと、福島県文化センター内の3会場において議論を深めることができたのは、公文書管理のあり方を模索している県内自治体にとって、意義深いものがあったと思われます。
 また、福島県にゆかりのある戦国武将が主人公となったNHK大河ドラマ「天地人」の放映により、郷土の歴史に関する関心が大いに高まったのも特記すべき点でした。当館では、福島県立博物館や福島県文化財センター白河館などと連携しながら企画展や講座を実施し、歴史の実像に迫る試みを行いました。企画展開催中の当館利用者は平年の2倍に迫り、当館職員による「出前講座」への要望数も20回を超えました。これらの事業は、当館の存在を広くお知らせするのに役立ち、結果として閲覧利用者数も増加しています。
 このほか、「江戸・明治期の地誌」、「まほろん連携資料展 摺上川歴史探訪」、「新公開史料展2009~史料の公開と活用~」などの収蔵史料テーマ展を開催しました。
 「古文書を楽しむ」と題した古文書講座は、米沢藩上杉氏の文書を題材に4回、「日本の伝統文化」と題する「フィルム上映会」は3回実施しました。地域史研究講習会では、新たに討論の時間を設けて講師と参加者の交流を図り、歴史研究法への理解を深めました。
(本間 宏)
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