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福島県史料情報 第27号(平成22年5月31日発行)

 
 目 次
 『大日本博覧絵』と写真師松崎晋二
 今から約120年前の明治22(1889)4月、東京浅草区須賀町18番地の石原徳太郎によって刊行された『大日本博覧絵』という銅版画集が当館に収蔵されている。2丁分の脱落があるものの、全78丁からなり、木口にはマーブル模様が施され、革の背表紙には「大日本博覽繪」「堀切良平藏版」と金文字で刻印されている。発行人の石原は、当時木版・石版・銅版・活版などの彫刻印刷を手広く手掛けていた人物である。覚世道人の序、扉には書家伊藤桂洲の「富國」、同久永其頴の「進徳脩業」の揮毫が存在する。堀切良平(1853―1918)は明治期に活躍した飯坂の地域名望家である。
 写真は須賀川産馬会社(30丁目表)で、その下図となった写真が地元に残されている。それは明治9年5月31日、東京中橋和泉町(中央区)の写真師松崎晋二(1850―没年不詳)によって撮影されたものである。明治9年の東北・北海道巡幸に際し、松崎は福島県庁からの依頼により半田銀山・二本松製糸会社など県内の殖産興業施設や名所旧跡を事前に撮影して天覧に供しており、そのなかの1枚が須賀川産馬会社の写真であった。門柱には「産馬會社」との門標が掲げられ、敷地に入ろうとする洋装の人物、門前で髷を結った和装の博労等が対比されて描かれている。社屋は2階建ての擬似西洋風建築で、明治天皇は6月15日に産馬会社へ臨幸し、2階から産馬と競売の様子を天覧している。左上には「福嶋縣産馬會社位置岩代國岩瀬郡須賀川驛」とタイトルが記され、右には文明開化を象徴するローマ字で表記されており、これは本書が外国人のお土産用であったことをも意味しているのである。
「須賀川産馬会社」
(『大日本博覧絵』、佐藤健一家文書174号)
 須賀川市宮先町にあったこの近代建築は、昭和46年(1971)に取り壊された。
(渡邉智裕)
  
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 「松川合戦」論の問題(1)
 慶長5年10月6日、伊達政宗は、当時上杉景勝の領地であった信達地方に侵攻した。この時の戦いは一般に「松川合戦」と呼ばれている。しかし、その名称や合戦の顛末については誤った理解が流布している。
「東国太平記」巻十五の一部
【名称の問題】
 そもそも「松川合戦」の名称は、延宝8年(1680)に成立したと伝えられる『東国太平記』に登場するものである。『改正後三河風土記』や『常山紀談』における記載は、基本的に『東国太平記』および同種の『会津陣物語』に立脚しているものと思われる。複数の史書に共通記載されているからといって、これを安易に史実と見なすべきではない。
 『東国太平記』では、この戦いを慶長6年4月26日に起きたものとして記録している。しかし、伊達家の『貞山公治家記録』に記載された慶長5年10月6日の記事が『東国太平記』の記載と類似するためか、多くの歴史図書において慶長5年10月6日の戦いを「松川合戦」と呼ぶのが一般化してしまった。
 確かに、『東国太平記』の記す慶長6年4月26日については、その日に戦いがあったことを立証するのが困難である。その一方で、慶長5年10月6日に福島で合戦があったことは、複数の同時代史料によって証明される。だが、その事によって慶長5年10月6日の戦いを『東国太平記』の「松川合戦」であるとするのは早計である。慶長5年から6年の伊達・上杉の戦闘は、小規模なものを含めれば、少なくとも7回以上にのぼると推定できるからである。
【松川の流路に関する問題】
 慶長5年10月6日の戦いは、当時信夫山の南を流れていた松川を挟んで、伊達軍と上杉軍が対峙したと語られることが多い。しかし、「伊達政宗最上陣覚書」(『大日本古文書 家わけ第三 伊達家文書之二』708)には、「一 福島と鎌田古城之間之川之名御尋被成候、松川と申候」とある。『貞山公治家記録』においては、松川の北岸に伊達勢、五十邊に上杉勢が対峙し、敗れた上杉勢は、「本道ノ西、羽黒山ノ方或ハ本道ノ東、腰野濱ノ方ヘ逃去ル」と記されている。松川が信夫山の南を流れているのであれば、上杉軍が羽黒山(信夫山)に退却するのは不可能であろう。さらに、『東国太平記』では松川と福島城の間に「福島川」があった事が記されている。『東国太平記』の記述は、後世の創作である可能性が高いが、かりに「福島川」の記載が事実であるならば、これは現在の祓川を指すものであろう。
 上記の3件はいずれも後世史料であり、信憑性の点においては問題がある。しかし、これらの記述を否定し、松川が信夫山の南を流れていたと断定できるような証拠が他に存在するのだろうか。
【合戦の顛末に関する問題】
 『東国太平記』は、簗川城の須田長義・車丹波らが政宗の後陣を襲い、福島城からは本庄繁長・甘糟備後・鐡上野介らが出撃して伊達政宗の本隊を挟撃したと伝えている。窮地に陥った政宗は茂庭の間道伝いに退却したとされ、あたかも寡勢の上杉軍が、大軍の伊達勢に圧勝したかのような記述となっている。一般に流布している「松川合戦」の逸話は、ほぼこの記載に準拠しているようであるが、極めて信憑性に乏しいと言わざるを得ない。
 この日、伊達政宗は、中島宗勝に宛てた書状(『大日本古文書 家わけ第三 伊達家文書之二』717)において、「今日ここ表にては三百余人、このうち馬上百騎ばかり討ち捕り、福島の虎口へ追い入れ、残す所無き手際にて国見へ打ち返し陣取り候(書きくだし)」と記している。10月6日の夕刻、政宗は国見山に帰陣しているのである。これにより、簗川城と福島城の軍勢が政宗を挟撃したという逸話は疑わしく、もはや政宗が茂庭の間道を退却するはずもないことがわかる。
 中島宗勝は、伊達軍の別働隊として信達盆地西方の村々を征圧し、上杉方の使者を討ち取ったようである。政宗は「明日もし福島筋よりの押さえにしかるべき人衆、七手も八手も保原筋へ遣わせべく候間、その衆申し合せべく候(書きくだし)」と中島に指示している。
 これにより、以下のような政宗の作戦を読みとれないだろうか。
①10月6日の攻撃で阿武隈川以西の上杉勢を福島城に追い入れる。
②10月7日に中島と「しかるべき人衆」が福島城を牽制する。
③その間に、伊達軍本隊と簗川城内の内応者の手合わせによって、簗川城を奪取する。
 政宗が6日午前2時頃に片倉景綱に宛てた書状(『引証記』)には、「今日のはたらきハ、明日やな川へのためにて候間・・・」とはっきり記されているのである。
 以降の顛末については、次号以降としたい。
(本間 宏)
 
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 茂庭の生活誌1
 今年度のフィルム上映会は「ふくしま森林文化企画展」の開催に合わせて、森と人の関わりをテーマにした作品をいくつか上映します。その中でも「茂庭の炭焼き」と「茂庭のくらし」の2作品は、福島市飯坂町茂庭地区の奥深い山間地の生活を記録した貴重な映像資料です。作品の中で記録されている近代以降の生活には江戸時代の古文書の記載に通じる部分もあります。そこで当館収蔵の「旧茂庭村文書」(収蔵資料目録第15集)の中からいくつかの古文書を取り上げ、江戸時代から続く茂庭の伝統的な生業を紹介します。
「茂庭村当午糸釜相改奉書上小前帳」部分
(旧茂庭村文書252)
 茂庭地区は山に囲まれ、稲作には不向きだったため、江戸時代から農業は焼畑が中心で、ソバ・大根・アワ・キビなどを作っていました。生活は、この農業のみでは成り立たず、養蚕、炭焼き、林業、狩猟といった副業で支えられていました。養蚕は江戸時代から盛んに行われ、資料としては写真の「茂庭村当午糸釜相改奉書上小前帳」があります。これは万延元年(1860)の記録ですが、当時、茂庭村全体で合計15の糸釜が書き上げられています。これは公式に繭から糸をとって製糸を行っていた数ですから、全戸数のうち半数以上が養蚕をしていたことになります。昭和30年代頃までは、夏は養蚕、冬は炭焼きに従事するのが一般的な副業の形態でした。
 炭焼きは江戸時代の嘉永年間(1850年頃)から古文書の中に登場します。当時は、隆盛であった半田銀山(現桑折町・国見町)で銀を製錬するための燃料として木炭が焼かれていました。明治時代中期以降になると、木炭が一般家庭の燃料として普及したため、炭焼きは盛んに行われました。茂庭は国有林が殆どであったため、営林署から材木の払い下げを受けて炭焼きをしました。炭焼きには、「焼き子」と「問屋」という分業体制ができていました。「焼き子」とは、実際に炭焼きの作業を行う労働者で、「問屋」は「焼き子」20~30人を取り仕切っていました。営林署から払い下げられた材木の代金(山代)を「問屋」が一括して支払い、「焼き子」は「問屋」から材木の他、米、塩、木綿など生活に必要な物を受け取り、木炭を「問屋」に渡します。そして、収支決算の結果の差額を「焼き子」が受け取る仕組みでした。
(小暮伸之)
 
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 旧二本松藩士がみた文明開化
 「東京新繁盛記」(斎藤文郎家文書その2・161~164)は、明治維新から7年後、文明開化の絶頂期に出版されたベストセラーです。全部で6巻刊行されましたが、それぞれが10,000部以上売れました。江戸から東京へと、めまぐるしく変わってゆく街の新たな風俗を、ユーモアを交えて、漢文調で見事に描き評判となりました。当時の政府にとっては、好ましくない記述も含まれているため、弾圧を受けることもあったようです。著者の服部誠一は二本松藩の儒者で、明治5年(1872)に上京しました。戊辰戦争で敗れた二本松藩に仕えていた人物ですから、新政府に対する反骨精神があったのかもしれません。
 写真は芝の「増上寺」に関する記述です。徳川将軍家の菩提寺として大変手厚く保護されていた増上寺の僧侶は日頃から尊大な言動が目立ち江戸時代には庶民の反感をかっていました。明治維新後は莫大な手当などの特権が廃止されたため、日に3度の食事にさえ困るようになり、初めて心の底から「南無阿弥陀仏」を唱えたと書かれています。また、現金収入を求めて、寺の敷地に割烹、そば屋、写真師などのテナントや風俗店を誘致したことも記されています。また、著者は牛肉がよほど好きだったらしく大絶賛しています。「牛肉店」の記述には、「白い飯を食わなくても、牛肉を食べれば百歳まで生きられる」「寝ても覚めても汝(牛肉)のことを思っているので、汝とは大変昵懇である…故に汝を我が腹に葬る」「良い店、普通の店、腐ったような肉を出す良くない店がある」などと記されています。当時の盛り場には、鰻屋よりも多くの牛肉店があり、凄まじいブームでした。
「増上寺」の部分


 この他、「夜店」の記述には、明治7年(1874)頃、東京の日本橋から浅草にかけてギッシリと夜店が立ち並んでいた様子が記されています。スイカ、団子、甘酒、にぎり寿司、炒ったエンドウ豆、天ぷら、肉の煮込み、古道具、古着、楊枝、歯磨き、箸箱、枕、金魚、鈴虫と様々な夜店が登場します。易者が「これこれ、占わないと、必ず災いがありますぞ…」と、通行人を脅す場面などもいきいきと描かれています。
(小暮伸之)
 
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 発行され続けた「官報」
 当館の文書庫には、明治16年から昭和41年にかけての「官報」が収蔵されています。官報は、政府が国の法令や国会に関する事項、官庁による報告、叙位・叙勲、物価に関する情報などを広く知らせるために発行される刊行物です。官公庁の休日を除いて、現在でも毎日発行されています
小さくなった「官報」

 官報はその目的上、お堅い記事がほとんどですが、なかには観光スポットの紹介記事なども見られます。例えば大正12年8月1日の記事「海と山」には、磐梯山と四ツ倉海水浴場の記載があります。磐梯山には猪苗代町から登山口まで人力車の便があること、近場の温泉、宿泊料や案内者の日当などが、四ツ倉海水浴場には最寄の駅から馬車と人力車で行けること、脱衣所が備えられていること等が記されています。東京天文台による「○月の空」では、星座や惑星の位置が星図入りで掲載されています。
 毎日発刊される官報を、福島県では1ヶ月ごとに綴り、表紙を付けて保管してきました。その綴りが昭和46年に当館に寄託されました。官報は、文書庫の本棚に背表紙を揃えてきれいに並べられています。しかし、一部だけ背表紙の高さが揃わない部分があります。それは大正12年10月から大正13年1月にかけてです。この期間のみ官報は、A4判に近かったものがB5判程度に縮小されました。また大正12年9月の綴りは、他の綴りより極端に薄くなっています。官報が小さく薄くなった理由は、関東大震災による被害、物資不足がではないかと考えられます。大正12年10月8日発行の「官報第3339號附録」には「九月一日震災ニ因リ當局事務所及工場消失・・・」と記されています。首都圏が大混乱に陥った状況にあっても、官報は仮の事務所を小石川植物園内に構え、9月2日から24日分は10月に入って「號外再録」という形で発行されました。
 その後の第2次世界大戦中、特に戦争末期から終戦直後の官報も、やはり薄くなります。しかし発行が途絶えることはなく、官報は坦々と国が公示すべきことを広報し続けてきました。
 (今野 徹)

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