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福島県史料情報 第28号(平成22年10月25日発行)

 
 目 次
 江戸時代後期の大衆小説『里見八犬伝』
 「里見八犬伝」(以下「八犬伝」、収蔵資料目録第38集・鈴木重郎治家文書286~305)は、文化11年(1814)から天保13年(1842)までに刊行された曲亭馬琴の長編読本で、全9輯106冊から成ります。「八犬伝」の刊行が始まったのは馬琴が48歳の頃でした。当初は2・3年で完結する予定でしたが、人気が沸騰し歌舞伎や浄瑠璃になって上演されたこともあって続編が刊行され、完結までに28年が費やされることになりました。その間、馬琴の失明という深刻な事態も発生しましたが、家族に口述筆記を頼むなどして完成にこぎつけたと言われています。
『里見八犬伝 第二輯 巻二』(鈴木重郎治家文書287-2)
 室町時代(15世紀半ば)の関東を舞台に、歴史上の人物が登場する「八犬伝」は、江戸時代の人々から見れば「時代劇」でした。しかし、登場人物の性格や生活は江戸時代そのもので、室町時代にはあるはずのない鉄砲や火薬などのアイテムがたくさん出てきます。そのため、読者もすんなりと感情移入できたのかもしれません。物語の全体構成は、中国の歴史小説「水滸伝」の影響を受けていると言われます。「八犬伝」の大きなテーマは「勧善懲悪」と「因果応報」で、この思想は現代のロールプレイングゲームにも通じるところがあります。
 物語は室町時代の末、安房(千葉県南部)の里見家と、八房という犬にまつわる8つの珠の誕生から始まります。写真は、里見義実の娘・伏姫が腹を切り、白い煙が立ち上がり、姫の首にかけてあった数珠の「仁義礼智忠信孝悌」の8字が見える大珠を包み込み、天空で八方に散る場面です。その10数年後、それぞれが珠を持ち、犬塚信乃など名字に「犬」がつく8人の侍が順次登場し、里見家と関東管領・上杉家との戦いなどを中心に大活躍します。
(小暮伸之)
  
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 「松川合戦」論の問題(2)
 『引証記』および『片倉代々記』に記録された(慶長5年)10月6日丑の刻(午前2時頃)付け片倉景綱宛て伊達政宗書状写(『仙台市史資料編11』1089)を見ると、片倉は、簗川城内の内応者が行動を起こすので、桑折方面ではなく、まずは簗川を攻めるべきだと政宗に注進してきたことがわかる。しかし、政宗はすでに2番隊が出発してしまっているため、備えを変えることができないと伝えている。そして、簗川は7日に攻めるとした上で、内応者に対しては知行を望み次第にはずむので、7日には内応者の手で簗川城本丸も先行して占拠するよう打ち合わせろと指示している。
 追書では、さらに本文の趣旨を繰り返して念を押している。その内容は、おおむね以下のように読み解くことができる。
 ①今日はもう桑折方面に出動し、急に梁川には向かえないから、7日に手合わせしようと(簗川城内の
  内応者に)返答するように。
 ②今日の出動は明日の簗川攻めのためであるから、軽快に行動するよう伝えよ。
 ③簗川への作戦変更は、もはや遅い。
 ④付近の館(陣所)にも桑折筋に向かうと連絡せよ。
 注意したいのは、これが片倉からの緊急連絡に対する返答だった点である。内応者は、伊達軍の来襲に反応し、「城内で火の手を上げるから、それを合図に中と外から攻撃しよう」とでも伝えてきたのではなかろうか。しかし、政宗は、突然の作戦変更が無理であるため、内応者が行動するタイミングを翌日にずらそうとしたのである。
 このうち、上記②に見られる「6日の作戦は7日の簗川攻めのためである」という内容が、政宗の本心を示している。政宗は、桑折から福島方面の上杉軍を掃討し、翌日に簗川城を攻撃する予定だったのである。つまり、10月6日の戦闘で、阿武隈川西方の上杉軍を摺上川および松川以南に押し込めて簗川城を孤立させ、福島には押さえの部隊を残し、翌日、確実に簗川城を奪取するという作戦だった事が読み取れる。簗川城を確保できれば、伊達氏ゆかりの旧領民たちが呼応し、伊達郡のうち阿武隈川の東側一帯を掌握できるという計算があったものと推測できる。
 そして、実際にこのあと、伊達軍の本隊は、桑折・長倉・瀬上・宮代・鎌田と進軍して上杉勢と戦い、阿武隈川西方に布陣する上杉軍を福島城方面に退却させたようである。
 また、前号に記したように、中島宗勝らの別働隊は、福島盆地西方の村々を征圧し、会津・米沢への経路を遮断している。これにより、山形の戦線から米沢に撤収していた直江兼続には、伊達政宗の電撃的な行動に関する情報が伝わらなかった。
 直江兼続は、若松城に宛てた10月7日午前0時頃の書状において、「ふくしま表への後詰、敵の手成いまだ見え申さず候条、延引せしめ候、(中略)ふくしま表の事、ここもとへは道不自由に付て是非聞こえ申さず候(以上、書き下し)」と述べている(『歴代古案 』巻11―102)。情報から取り残された直江兼続は、福島の状況を把握できないばかりか、援軍派遣も見合わせたのである。兼続とともに山形から撤収した水原(杉原)親憲が、福島盆地西方の敵軍を掃討したという軍記物の逸話は、かなり疑わしいことになる。伊達政宗による伊達郡の自力奪還は、まさに目前に迫っていた。
 一般に流布している説では、このあと須田長義率いる簗川城の上杉勢が伊達軍の背後を襲い、本庄繁長率いる福島城の軍勢との挟撃により、政宗を撃退したとされている。簗川城勢が後続部隊を攻撃した可能性はあるが、政宗が6日の夕刻には国見に戻って陣を張っているという事実(前号記載)がある以上、戦いの趨勢を左右するものではなかった。
 このように、伊達軍が圧倒的に優位に立った状況にありながら、翌10月7日、政宗は簗川城を奪わずに兵を引いている。これについて『貞山公治家記録』の編者は、「梁川城内ヘ内通ノ謀略不調ニヤ、又別ニ御思慮モアリニシヤ、相止ラル」と述べている。簗川城内において、内応者の企みが露見したのであろうか。
 10月9日、政宗は、家中の桑折宗長・白石宗直・大条宗直に宛てて書状を送っている。その冒頭では「今度の動(はたらき)仕合(しあわせ)能く、満足に候、今少し残り多き様に候へども、時節柄の事に候条、能き候と存じ候(書き下し文)」(登米伊達家文書・『仙台市史資料編11』1091)と記されている。「満足」とは言いながら、「今少し残り多き」というのが本音であった。
 この前日、政宗は、井伊直政を介して徳川家康に福島攻めの報告を送っている。これに対して家康は、10月24日付けの返書において、上杉攻めは来春行うと政宗に伝え、以後の行動に釘を刺している。実は、この時点ですでに、徳川・上杉の和睦が内々に進められようとしていた(10月23日付け直江兼続書状写『上杉家記』33所収黒川文書)。しかし、政宗はそのことを知る由もなく、次の信達攻撃に向けて準備を整えていくことになる。
(本間 宏)
 
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 檜枝岐村絵図について(4)
 「檜枝岐村絵図について」は、本誌24号~26号に3回連載し、近世の檜枝岐村の様子や景観について紹介してきた。4回目の今回は、天保13年(1842)11月に描かれた『会津大沼両郡五ケ谷十九組畧絵図』について紹介する。
天保13年(1842)11月「会津大沼両郡五ヶ谷十九組畧絵図」
 この絵図は、只見川と伊南川、阿賀川(大川)を軸に、現在の大沼郡・南会津郡・会津若松市の西部にまたがって広範囲に描かれている。主要な街道は沼田街道・下野街道・宇都宮街道が記されている。本稿では、この街道に沿って、絵図を解説する。
 沼田街道は、柳津から川口・蒲生・和泉田・落合・檜枝岐を通り尾瀬沼のそばを通過して三平峠を越える道が描かれ、街道が通過する各集落が詳細に記されている。なお、叶津から入叶津を経て八十里峠を越え、吉ケ平に出て長岡に至る道と、只見から田子倉を経て六十里峠を越え、越後大白川より長岡に至る道も描かれている。
 下野街道は、若松から大内(大内宿)・田島を通り川島・糸沢を経由して山王峠を越えて下野国に入り、横川・上三依を経て五十里に至る道筋が描かれ、やはり街道が通過する各集落が記されている。五十里で川路新道に至る道と「湯西へ出」と記載されている道に分岐する。川路新道の川路とは、現在の川治温泉、湯西とは、現在の湯西川温泉と考えられる。
 宇都宮街道は、若松通から芦ノ牧を通過し、塩生で折れて松川から野際を経て、峠を越えて板室に至る道筋が描かれている。なお、松川から南倉沢を経て甲子に向かう道も記されている。興味深いことに、湯原近くに「塔ノヘツリ」が記されており、これは現在の国指定天然記念物「塔のへつり」のことであろう。湯原は、現在の湯野上温泉にあたるものと考えられる。
 以上の主要街道以外の道も詳細に記され、この絵図は、江戸時代末期における大沼・会津両郡内の各集落を結ぶ広域地図として有用であったことがうかがえる。
(山内幹夫)
 
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 岩越鉄道開通と岩崎弥之助
 今から120年前の明治24年(1891)、官営鉄道敷設運動として岩越鉄道期成会が会津地方を中心に結成された。しかし、同27年には早期実現を図るため私設鉄道会社設立へと方針転換がなされたのである。これを強力に推進したのが会津出身で初めて福島県知事になった日下義雄であった。降って大正3年(1914)年11月1日、岩越線(磐越西線)は悲願であった郡山―新津間全線の開通をみたのである。
明治28年(1895)6月26日付岩崎弥之助書簡(部分)
(福島大学蔵明治・大正期の福島県庁文書第48号)


 当館には岩越線の前身である岩越鉄道会社設立に関する重要な公文書が保管されている。その表題は『軌道條例ニ関スル命令書案一途、岩越銕道ニ関スル書類』(福島大学蔵明治・大正期の福島県庁文書48号)、現在では都合2冊が1冊に編綴されている。そのうちの内務部第2課作成の『岩越鐵道ニ關スル書類』には、明治28年6月25日付第一国立銀行頭取渋沢栄一書簡、同6月26日付三菱合資会社監務岩崎弥之助(1851―1908)書簡、同7月5日付日本鉄道株式会社社長小野義真書簡などが収められており、何れも福島県知事日下義雄に宛てられたものである。渋沢等の3名は近代の日本経済を牽引した著名な実業家として今日知られた存在である。
 右上の写真は岩崎弥之助から福島県知事日下義雄に宛てられた手紙で、同年6月22日付で出された日下の書簡に対する返書である。岩越鉄道会社は明治29年8月に設立されることになる私設鉄道会社であるが、弥之助は日本鉄道株式会社の紹介により多くの株式に応募したことや早期に岩越鉄道創設の見込が立ったことに対して祝辞を伝えた。
 弥之助は土佐出身の三菱財閥創設者岩崎弥太郎の実弟で、妻は同じく土佐出身の政治家後藤象二郎の長女早苗である。彼は三菱社・三菱合資会社を創設して三菱財閥の基礎を築いた人物であるが、岩越鉄道の開通は弥之助等の積極的な協力によるところが大きいのである。
(渡邉智裕)
 
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 地域史研究会活動情報 伊達市保原町文化財保存会
 当会は、保原町内の文化遺産の歴史を探究し、遺された遺産の保護顕彰に務めるとともに、地域の発展に寄与することを目的に、昭和39年(1964)に発足した。その後、幾多の変遷を経て、現在は、総務・文化財・研修・編集の4委員会構成となり、会員数は120名を超えている。年会費2,000円。
1.講演会
 ほぼ毎年開催している。今年は1月に伊達市箱崎の福厳寺住職による「箱崎の獅子舞」と題する講演会を行った。獅子舞の発祥から現在の保存活動秘話にいたるまで、内容豊富な講演をいただいた。
2.保原町文化祭への参加
 昨年は、「旧上保原村初代村長渡邉源兵衛翁の所蔵展」を開催した。渡邉家は、17代続く旧家で、上杉家に合戦馬を多数献上した折に、上杉景勝公より槍を拝領した。又、何代も名主を務めた旧家である。古文書も多数所蔵し、現在は伊達市保原歴史文化資料館で保存されている。また、今年は、「我が家の戦争資料展」を開催する予定である。
3.地区外研修
 昨年は、NHK大河ドラマ「天地人」にちなみ、米沢・鶴岡方面へ足を伸ばし、善宝寺・致道博物館などを見学した。今年は北関東・白河方面を中心に1泊の史跡巡り研修を行い、30名が参加した。白河では小峰城跡の視察も行った。白河藩は江戸末期まで、保原城ノ内の陣屋に代官を置き、保原村を統治しており、当地の近世史に深く関わっている。
4.地域内研修
 昨年は、梁川歴史研究会会長の八巻善兵衛氏の案内で、仙台藩伊達氏ゆかりの梁川城跡と歴史建造物を見学した。今年は室町時代に南朝方であった北畠顕家公ゆかりの神社仏閣の視察、高子二十境での会員による顕彰会などを予定している。
5.機関誌の発行
 当会は、発足時から機関誌「郷土の香り」を毎年発行し、国立国会図書館、県内外の教育委員会、学校などに無償で提供している。今年は第44集を発行する予定である。
6.今後の課題
 会員の高齢化が進んでいるため、若い世代の入会が望まれる。また、同じ目的を持つ伊達地方の歴史研究会と連携し、伊達氏ゆかりの史跡などを研究していきたい。
 (会長 松本征一)
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