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福島県史料情報 第30号(平成23年7月31日発行)

 
 目 次
 中川耕山の『岩代国耶麻郡磐梯山噴火実況之図』
 明治21年(1888)7月15日、磐梯山は激しい水蒸気爆発により大規模な山体崩壊や岩屑なだれを引き起こし、麓の集落に甚大な被害をもたらした。磐梯山噴火に関する錦絵・木版画・石版画・活版刷りなどの災害情報誌の基礎データ集積、ならびに内容分析は今後の研究に待たれる点が多い。
岩代国耶麻郡磐梯山噴火実況之図(個人蔵)

 ここでは同年7月27日に出版された新出の災害情報誌で、中川耕山(1851―1899)によって作られた多色石版刷りの『岩代国耶麻郡磐梯山噴火実況之図』を紹介することにしたい。
 著作兼印刷者は東京府京橋区尾張町新地5番地の中川耕山、発行者は同区南鞘町29番地の熊澤喜太郎。耕山の名は良考、通称長次郎、梅村翠山から銅版技術を、オットマン・スモリックに付いて石版技術を習得し、知新堂を開業している。熊澤は明治20年から同29年頃に営業していた画作者・印刷者・発行者・売捌者を兼ねた人物である。
 もくもくと噴煙を上げる磐梯山、見祢の集落を一気に呑み込む岩屑なだれ、疾風によりなぎ倒された木々は焼けただれ、激しい噴火のため中腹より上の山肌は露出している。耕山自らが現地に赴き、写生して石版に起こしものだけに噴火の凄まじさが臨場感をもって伝わってくる。左下には噴火の概略が記され、右下には左から順に鳥瞰した「旧磐梯山之図」と同じく「噴火後之図」、本図と同一の方角から見た「破裂之図」、がそれぞれ表現されている。
 なお、『官報』によれば、この石版画は明治21年7月30日に登録番号第827号として内務省から「版権登録図書」の許可がおり、同年8月9日に広告されている。また、同年8月4日には内務省に「出版届出図書」して申請され、同年8月24日に広告されているのである。
(渡邉智裕)

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 大震災と福島県歴史資料館
 平成23年3月11日午後2時46分、福島県歴史資料館の躯体は軋み、床の上を机が泳いだ。電卓が宙を舞い、崩れ落ちる書籍と書棚の上に、天井のダクトが落下し、剥落した壁の粉塵が視界を遮った。
地震直後の福島県歴史資料館収蔵資料
 一体いつになったら揺れが鎮まるのかと思うほど、激しい揺れは続いた。身動きできぬまま耐えること約2分、来館者と職員は無事に館外に脱出したが、近隣で破断したガス管からガス漏れの臭いが蔓延していた。季節はずれの雪が舞う中、余震が頻繁に襲い、消防車と救急車のサイレンが間断なく響いた。電気・電話・携帯電話・水道・ガスのすべてが機能不全に陥った。
 このとき、浜通りの沿岸部に大津波が押し寄せ、想像を絶する甚大な被害がもたらされていた。さらに、福島第一原子力発電所の事故は、地域の歴史的紐帯と産業を根本から破壊し、人々の生活を一変させた。福島県災害対策本部による本年7月13日現在の発表によれば、この災害による福島県内の犠牲者は、死者1,759人、行方不明者198人にのぼっている。避難者の総数は約8万人で、うち約45パーセントは福島県外に避難している。
 震度6弱の揺れに見舞われた福島県歴史資料館は、壁に亀裂が入り、収蔵資料がことごとく棚から落下した。このため、3月12日以降しばらくは休館せざるをえなくなったが、収蔵資料には破損が無く、建物も致命的な損傷には至らなかった。
 余震の合間を縫いながら、崩れ落ちた収蔵資料の分類と配架を進め、5月9日には、収蔵資料の閲覧が可能な状態にまで復旧し、再開館を迎えることができた。ただ、空調設備と給排水管が損傷しているため、来館される方々にはご不便をおかけする状態が続いている。展示室については、8月20日にオープンの予定である。
 歴史資料館では、館の復旧作業と併行させながら、震災に見舞われて散逸の危機に瀕している歴史資料の救出活動を進めてきた。
 4月中旬以降、県内各地から資料保全の依頼が舞い込むようになった。それは、取り壊しの日程が逼迫した土蔵や家屋から資料を救出しなければならないもので、一刻の猶予も許されない状況にあった。
 歴史資料館では、福島県立博物館・福島大学・福島県史学会とともに、昨年11月に「ふくしま歴史資料保存ネットワーク」というボランティア組織を発足させていた。まさしく、今回のような災害に備えた試みであったが、あまりにも準備期間が短いまま、この大震災を迎えてしまった。
 このため、ふくしま歴史資料保存ネットワークの発起人となった4機関は、行政判断を待たず、自主的に史料救出に出動する決断を下し、危険な場所から歴史資料を避難させる作業を優先的に実施している。
 4月1日から7月13日までの間に、ふくしま歴史資料保存ネットワーク・県立博物館・歴史資料館・当該市町村が調査または救出を行った事例は、把握できている範囲で25件にのぼる。内訳は、土蔵等の収蔵施設の損壊が14例、津波被害が4例、史料損壊が1例、管理不能が6例となっている。管理不能としたものの大半は、所有者・管理者の避難によるものである。
 救出対象となったものは書画・古文書・典籍・古写真・考古資料・武具・仏像・絵馬・民具など多岐にわたる。こうした資料は、できるだけ地元の収蔵施設に保管していただくよう交渉を重ねている。しかし、市町村等の収蔵施設が被災している事例が多く、公的施設が避難所になっているなど、保管場所確保への苦慮は続いている。やむを得ない事情のものについては、福島県立博物館・福島県歴史資料館等が一時保管または寄託という処置で資料を受け入れているのが現状である。
 この活動の目標は、歴史資料を後世に伝えるという一点に尽きる。一度失われた歴史資料は、二度と元に戻すことができないからである。
 福島県歴史資料館には、ボランティア組織「ふくしま歴史資料保存ネットワーク」の問い合わせ窓口が開設されている。被災により、先祖代々守り伝えてきた所蔵品の処遇にお困りの方や、関係する情報をお持ちの方は、まずはご一報いただきたい。

ふくしま歴史資料保存ネットワーク
【事務局】 福島市金谷川1番地 福島大学行政政策学類 阿部浩一研究室気付
【連絡先】 福島県歴史資料館  TEL 024(534)9193 FAX 024(534)9195
(本間 宏)

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 公文書でみる明治時代1
 今年4月、平成21年6月に成立した「公文書等の管理に関する法律」が施行されました。この法律には、歴史資料となり得る公文書を公文書館などに積極的に移管し、保存・公開することが定められています。法の直接の適用範囲は国の省庁や独立行政法人などですが、地方自治体でも同様の施策を行う努力義務が明記されています。当館では同法の施行に合わせて収蔵資料展「公文書でみる明治時代」を開催します。この企画展では当館収蔵の公文書を通して福島県の明治時代をふりかえり、公文書保存の大切さをアピールしたいと考えています。ここでは、その展示資料のいくつかをご紹介します。
①明治天皇の東北巡幸に関する公文書
「太政大臣通達」(福島県庁文書第535号)


「心得方」(福島県庁文書第535号) 
 明治9年(1876)6月2日から7月21日にかけて、明治政府は天皇の東北巡幸を挙行しました。
 この巡幸には、日本が明治維新を経て天皇を中心とした近代的な国家に生まれ変わったことを庶民にアピールするという大きな目的がありました。当館には、巡幸の詳細を記録した公文書が保管されています。
 明治天皇の東北巡幸が福島県に正式に伝えられたのは、明治9年(1876)4月24日付の「太政大臣通達」(福島県庁文書第535号・右の写真)によってでした。福島県に到着する予定日は6月13日であり、この時点で準備期間は約1ヶ月半しかありませんでした。しかも福島県にとって、天皇の巡幸は初めての経験ということもあり、ノウハウもなく、内務省からの指示だけが頼りという差し迫った状態でした。しかし、当の内務省でも「巡幸マニュアル」のようなものは、まだ整備されていなかったため、対応に当たった福島県職員は相当困惑したようです。
 待望の指示書は5月6日付で内務省から届きました。それが「心得方」(福島県庁文書第535号・左の写真)で、天皇を迎える際の注意点と準備物が書かれています。内務卿の大久保利通は、この指示を徹底するように命じていますが、全てを網羅しているわけではなかったため、福島県では担当の職員を東京に派遣し、内務省に直接指示を仰がなければなりませんでした。また、内務省から次々に出される通達にも、一つ一つ対応しなければなりませんでした。この簿冊には、確認事項を一つずつ積み上げ、歓迎体制を整えた経過が詳細に記録されています。
 6月2日に東京を出発した230余名にものぼる一行は、6月13日に白坂(現在の白河市内)に到着し、10日間、県内に逗留しました。その間、須賀川産馬会社・開成社・二本松製糸会社・半田銀山などの近代産業施設、郡山学校・福島学校などの教育施設、福島県庁、戊辰戦争の故地などを視察しています。
 明治天皇は、明治14年(1881)にも北海道・東北地方を巡幸しています。この時は「御巡幸ニ付沿道地方官心得書」(福島県庁文書第539号)という「巡幸マニュアル」が、関係する各県に送付されました。これまでの布達をまとめ、問題点を改善した内容になっています。明治14年の巡幸は基本となる規則が事前にまとめられていたため、福島県では余裕を持って対応することができました。また、この頃になると、電報が普及していたため、県と政府の間の事務連絡などは、前回に比べてスピーディに行われるようになりました。
②安積開拓と安積疎水に関する公文書
「ファン・ドールンの復命書」(福島県庁文書第2711号)
 明治時代の安積開拓は、現在の郡山市が発展する契機になりました。この開拓は、大きく三つに分けられます。一つ目は、明治9年(1876)の三県合併前の旧福島県が指導して行った大槻原(現在の開成地区)の開拓です。旧二本松士族の救済という側面がありました。二つ目は、明治6年(1873)に郡山の有力商人が結成した開成社が行った開拓です。農業用水を確保する用水池(開成沼)、幅広い開拓道路、移住者の住宅整備などが行われました。三つ目は、明治11年(1878)以降、士族授産を目的に国家プロジェクトとして行われた大規模な開拓です。安積疎水工事が行われました。今回は、この安積疎水に関する代表的な資料を紹介したいと思います。
 福島県庁文書第2711号(右の写真)は、明治政府に雇われたオランダ人技師ファン・ドールンの復命書です。ドールンは、明治11年(1878)11月に安積疎水の予定ルートを巡検しました。この公文書は、その結果報告書です。

(小暮伸之)

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 官報掲載の明治三陸大津波
 去る3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震では、東北地方の太平洋岸に甚大な津波被害をもたらしたが、東北地方の宮城県から青森県にかけての三陸海岸では明治時代や昭和時代にも大きな津波被害が発生していることが官報に記載されている。本稿では、この明治三陸津波と昭和三陸津波の記事について連載して紹介したい。
官報第3898号(明治29年6月27日)


 明治29年6月15日、宮城県から岩手県にかけての三陸海岸を大津波が襲った。いわゆる明治三陸大津波であるが、その時の記録が官報に掲載されている。最初の記事は官報第3889号(明治29年6月17日)である。官報の雑事の項目に海嘯被害として「北海道及宮城、岩手ノ二県ヨリ海嘯被害ノ状況ニ附キ左ノ如ク電報アリ」と述べ、宮城県では「一体昨日午後八時海嘯アリ家屋ノ流失、人畜ノ死傷少ナカラス本吉郡志津川館家屋七十余流失、七十人ノ死傷アリ」、岩手県では「今朝海嘯ノタメ県下盛町人畜死傷無数又釜石市街過半流失人畜死傷多シ電信局流失ノ旨報知アリ」と報告された。
 当時は津波のことを海嘯と表現している。6月15日午後8時頃に発生した大津波では岩手県から宮城県にかけての海岸線において多くの家屋が流され甚大な人的被害が生じたことが報告されているが、その具体的数字については「委細は取調中」ということで、続報により詳細が明らかになってくる。18日の官報第3890号からは、被害の様子が具体的に記載されるようになった。「海嘯ノ原因ハ海ノ中ノ地震ニシテ其中心ハ志津川沖ニ在ルカ如シ」と、大津波を引き起こした地震の震源が宮城県志津川沖と記していることが特徴的である。被害としては、宮城県では本吉郡・牡鹿郡・桃生郡にて津波による甚大な人的被害と建物被害があったこと、本吉郡では1900名以上の死亡が確認されたことが報じられている。さらに、集治監出張所(刑務所)では看守と服役者に津波の犠牲者が出たことも記されている。岩手県では久慈町や大槌町、釜石町、山田町などで甚大な津波被害が発生し、町の流亡が記されている。
(山内幹夫)

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