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福島県史料情報 第32号(平成24年2月25日発行)

 
 目 次
 苅宿仲衛が持っていた磐梯山噴火の写真
 苅宿仲衛(1854―1907)は、原子力災害により現在警戒区域となっている双葉郡浪江町苅宿出身の自由民権運動家で、また福島県会議員でもあった人物である。苅宿家は代々標葉神社宮司職を務め、地域名望家の家柄でもあった。
「磐梯山噴火の写真」(苅宿仲衛家文書)

 明治21年(1888)7月15日の磐梯山噴火と同時代に生きた仲衛は、政治家としてこの自然災害にどのように向き合ってきたのであろうか。
 磐梯山噴火の写真は、関係者のご努力によってこれまで200点以上が確認されているが、当館にも7点ほど収蔵されている。上掲の写真は、仲衛が大切に保管していたもので、台紙の法量は6.4×10.5㎝、印画紙(鶏卵紙)の法量は6.1×9.2㎝である。これは噴気を上げる磐梯山爆裂火口を写したもので、手前には京ヶ森(耶麻郡北塩原村)が写っている。台紙の裏には「岩代若松七日町金上寫」との記載があり、撮影者は現会津若松市七日町の写真師金上某であることが分かり、現喜多方市塩川町の岩田善平(1855―1896)以外の地元写真師の存在が新たに判明する貴重なものである。
 この写真は、県会議員である仲衛が常置委員会委員の任にあったことと深く関係しており、仲衛は遅くとも7月31日の時点では入手している。8月2日から仲衛は常置委員会委員として磐梯山噴火被害地視察のため現地を訪れ、5日に郡書記・郡長などの案内で行った磐梯山北西の被災地の様子を筆舌に尽くしがたい惨状であると父俊昌(1835―1893)へ書き送っている。また、仲衛は同じ日病院にもこの災害による怪我人を見舞った。6日には大磐梯山の西麓を登って中ノ湯に到り、そこから破裂口に足を踏み入れたのである。その後さらに危険な噴火口を横断して東へ出たという。
(渡邉智裕)

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 俳人大内壺山ゆかりの資料
 平成22年に福島県歴史資料館に収蔵された大内家文書は、川俣町の旧家大内家に伝来したものである。
「黙翁西遊記」の一部
 江戸時代後期、蚕糸取引の隆盛によって川俣の名は全国に知られていた。中でも大内家は、川俣では「大伝」の名で知られた旧家で、上方との商取引も活発であったと伝えられている。豪商として知られる三井越後屋とも商取引があり、三井家13代当主の三井高福が奥州に来た折りに大内家に逗留している。
 大内家文書の根幹をなすのは、大内壺山(大内家3代目伝兵衛 1789―1843)が残したと見られる資料群である。3代目伝兵衛は、「壺山」の他、「壺山人」・「黙翁」・「黙巣」とも号した俳人であった。
 天保11年2月16日、壺山は、三井家からの招きにより、伊勢参宮を兼ねた京への旅に出立した。その際に壺山が記した道中記が「黙翁西遊記」(写真)である。壺山の長男で、同じく俳人であった九畦が書写した「黙翁西遊記」の内容は、当時存在した街道沿いの風俗や慣習を知ることができる貴重なものである。
 このほか、大内壺山が旅に携帯したと見られる矢立、貨幣、箸のほか、江戸日本橋の須原屋茂兵衛板の印刷による道中案内書『新版諸国道中細見記』(板本)なども残されている。これらの資料群は、江戸時代後期の庶民の旅をリアルに再現できるものとなっている。
 大内家8代目の大内史之氏(故人)は祖先が遺した史料の意義を後世に伝えるため、平成21年3月に『西遊記―天保11年大内壺山の旅日記』と題する研究書を、山本光正氏、大内悠女(光子)氏、田中正能氏との共著で自費出版されている。
 福島県歴史資料館では、館の修復工事が終了したのち、大内壺山に焦点を当てた収蔵資料展を開催したいと考えている。
(本間 宏)

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 官報掲載の磐梯山噴火記事
 明治21年7月15日の磐梯山噴火では、477名の犠牲者を出した。当時としては、福島県の自然災害史上最大規模の災害であったが、ここでは官報で磐梯山噴火についてどのように記載されているかを紹介する。
官報第1515号「雑事」 明治21年7月18日
 明治21年7月18日の官報第1515号の雑事の項目に、磐梯山噴火の第一報が掲載されている(写真)。それによると、7月15日午前7時に磐梯山が噴火し、2里四方が崩壊し、被害面積は6里四方に及ぶことが記されている。約400人の人間と36戸の家屋が山体崩壊による岩屑なだれで埋没し、土石流や火山泥流により檜原大川の流れが堰き止められ、檜原地区が水没の恐れがあるために村民が荷物をまとめて避難し始めている様子も記されている。
 7月19日の官報第1516号では、理科大学教授の関谷清影を磐梯山噴火の現地調査に派遣したことが記されている。さらに同号の雑事の項目には、磐梯山噴火被害状況が詳しく記されている。それによると埋没戸数が195戸を数え、磐梯山の周囲2里四方は噴火灰燼により草木が枯死し、長瀬川の流れが堰き止められて停滞し、2里四方に水が溢れており、死亡した人間は約500人以上いることが記されている。
 7月21日の官報第1518号では、内務省の技師和田雄治による実地検分の報告が掲載されており、小磐梯の崩壊により温泉場2箇所、村落3箇所が埋没し、死者476名、被害面積は8,263町歩に至ることが記されている。
 7月23日の官報第1519号では、福島県に出張中の地質局長兼理科大学教授の和田維四郎を磐梯山噴火の実地調査の当たらせたこと、和田維四郎の現地調査報告と和田維四郎が理学士大塚専一を現地に滞留させて調査に当たらせた事などが記されている。
 このように磐梯山噴火被害の様子がある程度具体的に知ることができ、官報も重要な歴史的公文書と言うことができよう。
(山内幹夫)

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 公文書でみる明治時代2
③万世大路事業誌


上から順に
図4「土石留方法之部・第二(図)」
図5「土石留方法之部・第三(図)」

 万世大路は初代山形県令の三島通庸が「交通の整備が県を発展させる」として多数の反対を押し切り、開削した大規模道路として知られています。これは輸入超過による貿易赤字に悩まされていた初期の明治政府が、生糸を中心とした輸出品の産地である東北地方の交通インフラを整備して殖産興業を推進するという国家プロジェクトに沿うものでした。
 福島~米沢間の新道開削は、明治8年(1875)9月に福島県上飯坂村の石渡丈七らによって提案されていましたが、本格的な現地調査が行われたのは明治9年(1876)8月で、山形県官の伊藤佑忠が福島県に共同開発を申し入れました。計画路線内には栗子山をはじめとする隧道工事が含まれ、地盤が固く難工事になりました。栗子山隧道の工事には当時世界に3台しかなかったアメリカ製蒸気式削岩機が使われました。明治14年(1881)10月に、荷馬車通行可能な当時としては画期的な大規模道路(道路幅員7.2メートル、隧道幅員5.4メートル)が開通し、東北・北海道巡幸中(帰路)の明治天皇を迎えて開通式が挙行されました。その後、明治天皇によって「万世大路」と命名されています。
 福島県が担当した路線(中野新道)は「福島~中野~二ツ小屋隧道~栗子山隧道東坑口」までの約30kmで、二ツ小屋・高平・大桁の隧道工事が含まれていました。『万世大路事業誌』(明治期福島県庁文書1961号)は記録を後世に残すために、主な関係書類を編集した簿冊で、当時の土木工事の実態と技術レベルを知る上で貴重な史料です。
 その中の「土石留方法之部」には現在の土止め支保工にあたる落盤、崩落事故防止の対策が図解されています。これは明治13年(1880)8月に新道掛の県官を大坂鉄道局に派遣して習得させた技術です。図4・5には工事中に崩落した部分の天井や壁面に石材を巻き立てて補修した後、空洞部に土砂を搬入して充填する工法が説明されています。空洞を放置すると、再び落盤、崩落が発生した時に石材で巻き立てた隧道の天井や壁面を破壊する恐れがあるからです。図中の木枠、櫓は人夫の作業通路であり、落盤や崩落が発生した際に逃げ込むシャルターでもありました。また、岩盤を押さえ落盤や崩落が起きないように補強する役割も備わっていたようです。この工法は江戸時代の『佐渡鉱山金銀採製全図』に描かれた「山留め」に繋がる隧道掘削技術です。この全図には専門の技術者(山留ノ者)が作業している様子が描かれていて、4種類の基本的な工法、「合掌留山(上部からの圧力を下の二方向に分散して支える方法)」、「押エ留山(側方からの圧力を反対側へ逃がす方法)」、「セイロウ留山(周囲からの圧力を井桁状に組んだ枠と縦木全体で受ける方法)」、「留棚(坑道の壁面に固定した横木と坑道との隙間に縦木を詰め込んで崩落を防ぐ方法)」が示されています。これらは江戸時代に広く普及していた甲州流鉱山開発技術を継承したものですが、日本古来の技術と最新の巻き立て工法が併用されているところに、明治前期の隧道工事の特色が現れていると言えます。
 また、陸軍省所管の仙台鎮台から火薬の払い下げを受け、隧道掘削の発破作業も行われました。これにより死傷者が続出したため、中野村円部に福島病院仮出張所が開設されました。記録が残されているのは明治10年(1877)10月3日から同14年(1881)6月29日までで、福島県側の工事工程では二ツ小屋隧道、高平隧道の掘削工事、開通後の取付道路開削、隧道貫通後の幅員拡幅工事など付帯工事が終了するまでの期間です。346の事例が報告され、その中で死亡事故は4例です。最も多いのは外傷で158例を数え、全体の約5割を占めています。個々の事例を見ていくと隧道掘削に伴う外傷が多く、岩盤を破砕する際の発破作業により火傷・打撲・骨折・失明など重傷を負うケース、岩石崩落による全身強打、滑落により重傷を負うケースが目立ちます。特に全身火傷、生き埋めになった事例では精神錯乱状態に陥るなど重篤な症例が報告されています。この他、夏期の熱中症が5例みられます。滞食・下痢・胃痛・胃痙攣などの胃腸虚弱も47例報告されています。原因としては、頻発する事故に対するストレスや職場風紀の問題が考えられます。福島病院仮出張所で治療を受けた患者の中には、監獄職員10名と懲役囚55名が含まれています。掘削作業に従事して負傷した人夫の実に約2割が懲役囚だったことになります。監獄職員の目があるとはいえ、一般の人夫には大きな精神的負担になった可能性があります。
(小暮伸之)

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 震災と史料保存
 東日本大震災の発生により県内各地の歴史資料が散逸・損傷・劣化の危機に瀕しています。
 福島県歴史資料館を管理運営している福島県文化振興事業団では、資料の散逸を防止するという、館の設置趣旨に照らし、被災地の歴史資料救出を、今年度の最重要課題と認識しました。福島県立博物館・福島大学・福島県史学会とともに結成した「ふくしま歴史資料保存ネットワーク」の一員として、歴史資料・文化財の保護に取り組んでいます。同ネットワークの加盟機関や個人によって調査・保全が図られた事例は、34件にのぼります。
 その一方で、文化庁が創設した「文化財レスキュー事業」という事業があり、保存科学や歴史・美術などの全国の研究者たちが被災地に入り、宮城県と岩手県では確実な成果を挙げています。ただ、福島県においては、福島第一原発の事故による放射能の問題が重くのしかかり、原発から半径20キロメートル圏の警戒区域内と、高放射線量を示す一部区域については、「文化財レスキュー事業」による組織的な救出活動は見送られる事態となっています。屋内に保管されている資料の多くは放射能汚染を受けていないという調査所見が報告されていますので、資料の劣化を最小限にとどめるためにも、早期の救出が必要と言えると思います。
 さて、過去の歴史資料を残すのと同時に、このたびの東日本大震災の記録を後世に残していくことも極めて重要なことです。福島県歴史資料館では、福島県からの事業委託を受け、東日本大震災の体験に関する証言を、インタビュー映像として記録する作業を始めました。また、避難先で配付されたビラ・チラシや避難所だよりなどの広報、震災や避難生活を記録した写真・ビデオ映像などの無償提供も呼び掛けています。これは、大地震・大津波と、これに連動して発生した原発事故、地域破壊、産業破壊、健康被害、風評被害などの体験と記憶を風化させないよう、実施するものです。
 福島県は、今なお災害が継続中ですので、心の傷が癒えるどころか、不安が増大している場合もあります。できれば忘れてしまいたい、という記憶もたくさんあると思います。しかし、次世代の人々に二度と同じ経験をさせないためには、忘れてしまいたい記憶もきちんと記録にとどめ、その教訓を伝えていく必要があります。ぜひ情報をお寄せ願います。
(本間 宏)

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 歴史資料館の1年
 昨年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震により、福島県歴史資料館も少なからぬ被害を受けました。当日は来館者・職員ともに無事でしたが、築40年を経過した建物の壁には亀裂が入り、天井からはダクトが落下し、給排水管や空調設備も損傷して使用できない状態となりました。このため、歴史資料館は、臨時休館したままの状態で平成23年度を迎えました。
 文書庫・収蔵庫に保管していた多くの歴史資料は棚から落下していましたが、これらの再配架と落下防止措置を終え、館内の清掃、危険箇所への応急措置を講じ、5月9日からは再開館させることができました。
 ただ、空調設備が損傷していたため、資料の保管環境は劣悪な状態が続きました。温湿度の変化はカビや虫害の発生を招きやすいため、除湿器をフル稼働させながらの人的管理を実施しました。
 展示室には、当初は県内各地から救出した歴史資料を仮保管していましたが、8月20日には展示室を再オープンさせ、『公文書にみる明治時代』という収蔵資料展を2回実施しました。これは、公文書管理法施行を記念してその意義をお伝えするもので、前期と後期にわけて展示品を交換しながら実施したものです。また、1月からは、『新公開史料展』を実施しています。
 付設されている文化会館にも甚大な損傷がありましたが、8月から12月までは部分開館させることができました。このため、古文書講座、フィルム上映会、地域史研究講習会、友の会講座などの諸行事は、おおむねこの期間内に実施することができました。
 なお、災害復旧工事及び耐震改修工事のため、本年2月27日(月)からは再び臨時休館となります。工事中は、原則として歴史資料館の利用ができなくなりますので、御理解を賜りますようお願い申し上げます。開館日は、本年秋頃となる見込みですが、詳細が決定次第、ホームページでお知らせいたします。
(本間 宏)

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