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福島県史料情報 第34号(平成24年10月25日発行)

 
 目 次
 『磐前縣治一覧概表』について

磐前県管内略図(『磐前縣治一覧概表』部分、個人蔵、右が北)
 明治4年(1871)11月28日から同9年8月21日に廃止されるまで、現在の浜通り地方のほぼ全域および中通り地方の一部を県域とした磐前県という県が存在していた。その期間が約4年9ヶ月間と短かく、当時の府県自体も目まぐるしく変更されたためか、一般にはあまり知られていない。
 明治政府は明治4年7月14日に廃藩置県を断行し、さらに全国的な府県統合を推し進め、同年11月2日に磐城平・湯長谷・泉・棚倉・三春・中村の6県と笠間・松川・小見川・多古の4分県が統合されて平県が成立し、同月28日に磐前県と改称されたのである。政府により県庁所在地は平藩の藩庁(城)があった平に置かれたが、当時の府県の県庁所在地は基本的には江戸時代の藩庁があった場所に置かれるのが通例であった。また、磐前県は磐前・磐城・菊多・楢葉・標葉・行方・田村・白川・石川の9郡と宇多郡の一部を管轄していた。
 『磐前縣治一覧概表』は明治8年10月に刊行され、折り本形式の畳本、表紙は深緑の絹張りで、印刷様式は銅版刷りである。これは同6年8月の『磐前縣一覧表』に管内略図を付して詳細にしたもので、明治10年以降に発行された『福島縣治統計概表』へと連なるものである。『○○縣一覧概表』や『○○縣治一覧概表』は、当時の各府県において作成されることになっていた基本的行政刊行物であった。
 その記載内容は、管轄・地理・戸籍・職員・金穀・名産など多岐にわたる。調査時期は明治7年1月から同8年8月までで、当時の統計資料としてはもとより幕末期の状況をも窺い知れるものである。
 なお、『磐前縣治一覧概表』は、明治9年の東北・北海道巡幸の際には磐前県に関する基礎データとして明治政府へ献上されている。
(渡邉智裕)

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 福島県に献納されていた小口信明の磐梯山噴火写真
 明治21年(1888)7月15日の磐梯山噴火は多数の犠牲者を出し、人々に自然災害の恐ろしさをまざまざと見せつけた。名前が確認されている写真師だけでも12人以上の者たちが噴火直後から現地に入り、彼らによって撮影された写真は早いものでは7月下旬には全国に販売されて流通し、噴火災害のイメージ形成に大きく寄与したのである。
 4年程前に福島県内で小口信明の『岩代磐梯山噴火写真』という写真帖が公表され、大きな話題を呼んだ。この写真帖は、明治21年8月14日に小口自らが関わっていた東京日本橋区本町三丁目壱番地の精光堂から刊行されたものであり、購入の予約は読売新聞紙上で募られた。
 ところで、写真師小口信明と福島県との接点が垣間見える注目すべき史料が当館に保管されている。
 同年8月21日、小口は『磐梯山噴火実況写真』1冊ならびに2枚の磐梯山噴火写真を福島県へ献納する旨申し入れた。その代理人として福島県福島町置賜通壱丁目の岸田一二は、福島県知事折田平内宛に写真献納願を提出している(『義捐金書類』、明治・大正期の福島県庁文書1515号、左上図)。福島県ではこの文書を同日に「庶内第八一六八号」として収受し、同日付けで福島県庶務課の新田貞橘(後の第3代福島民友社長)によって起案され、翌22日付けで決済となった。福島県より受け入れる旨の回答が正式に出され、代価金3円50銭分の義捐金として事務処理されたのである。
 右の図版は福島県が整理した義捐人名簿で(『磐梯山噴火罹災者義捐人名簿』、明治・大正期の福島県庁文書1511号)、この史料からも実際に写真帖などが受け入れられたことが裏付けられるのである。しかしながら残念なことに、その写真帖などの現物は国に献上されたのか、今に伝わっていない。
(渡邉智裕)

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 古社寺調掲載の住吉神社
 当館は福島県神社庁から福島県神社庁文書の寄託を受けている。その中の「古社寺調」(明治28年)にいわき市に所在する住吉神社が収録され、詳細に描かれた見取図が掲載されている。見取図には境内建築物の6脚の鳥居・太鼓橋・拝殿・本殿が描かれ、本殿の左側には樹叢繁る岩山が描かれている。
福島県磐前郡玉川村住吉神社見取図

 本殿は寛永18年に平藩主内藤政長の子政晴によって建てられた屋根銅板葺の三間社流造りで、県重要文化財に指定されている。本殿左側の岩山は「磯山」と称され、新生代第三紀由来の残丘で、樹叢は照葉樹林、面積は約2000平米、いわき市の保存樹林に指定されている。
 現在の住吉神社は、新しく建てられた神門・社務所・祗候殿を省けば、古社寺調に収録された神社の見取図そのままの様子が保たれている。特筆すべきは磯山とその樹叢で、磯山はかつて小名浜が内湾で船が出入りしていた時代には目印となり、古来より航海安全を祈願する信仰の岩山であったことがうかがえる。
(山内幹夫)

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 「いいたての歴史と風土」展開催のいきさつ
 東日本大震災の発生から1年半以上が経過した。被災した福島県歴史資料館は、復旧・耐震工事のため2月27日から臨時休館となったが、本年9月29日にようやく再開館することができた。
 再開館と同時に、福島県歴史資料館展示室において「いいたての歴史と風土」展が開会した。会期は本年12月16日までで、会期中は無休である(入場無料)。
【開催の経緯と目的】
 展示しているのは、原子力災害で全村避難が指示された飯舘村の資料である。村が無人状態となることにより、資料の劣化・散逸・盗難が危惧されたため、飯舘村教育委員会とふくしま歴史資料保存ネットワーク・福島県歴史資料館などの手で飯舘村外に搬出され、保護されてきた。
 未曾有の災害によって、人々の暮らしは破壊され、長い歳月をかけて培われた飯舘村の産業と歴史的紐帯は危機に瀕した。「文化財なんかどうでもいい」という意見も聞かれたが、地域に育まれた伝統文化の証(あかし)は、一度失われてしまったら、二度と取り戻せるものではない。飯舘村に育まれた文化をきちんと伝え、郷土への誇りや、歴史と自然に培われた人々の絆を分断させないための取り組みは、どんな状況にあっても必要なことであった。
 放射線への不安が募る昨年6月下旬、「自己責任で」という協力者募集の呼びかけに応えた村内外19名のボランティアメンバーが、歴史資料の移送作業を行った。移送にあたっては放射線量の測定も実施したが、屋内に保管されていた資料には放射性物質の付着が認められなかった。古文書等は、現在は福島県歴史資料館に一時的に寄託されている。
 現在開催している「いいたての歴史と風土」展では、飯舘村の先人が発見した考古資料や、村内のお宅に代々受け継がれた江戸時代・明治時代の古文書のほか、伝統芸能・年中行事などの写真を展示している。地域に育まれてきた文化と歴史的風土を見つめ直し、郷土への誇りや、人々のつながりを確認する機会になってほしいという願いを込めた資料展であった。

展示を観覧される飯舘村の方々

ステージで披露された大倉の神楽
【地域文化の継承・再生へ】
 この展示の関連行事として、本年10月7日・8日の2日間、展示室に隣接する文化会館において、「来て、見て、触れて、深まる絆!いいたて村文化祭」が開催された(飯舘村教育委員会ほか主催)。これは、強制避難によって散り散りになった村民が集まる機会を設定し、人々に根付いてきた文化の灯火を絶やさぬよう企図したものであった。
 大ホールのステージでは、佐須の虎捕太鼓、赤坂の神楽、大倉の神楽、奥州宮中神楽団による神楽の舞いなどのほか、民謡、手踊り、フラダンス、新日本舞踊など、村民が育んできた新旧さまざまな芸能が披露された。また、避難生活の中で沖縄県や海外への研修に参加した子供たちからの報告会、相馬農業高校飯舘校の発表会、「発掘されたいいたての文化」と題する鈴鹿良一さん(考古学者)の講演、さとう宗幸さん(歌手)による「いいたて応援コンサート」なども開催された。さらに、文化会館の2階展示室においては、村民が制作した様々な美術工芸・文芸作品等が所狭しと展示された。視聴覚室において開催した福島県歴史資料館フィルム上映会では、飯舘村のあゆみ、伝統芸能、史跡などを記録した映像を上映した。
 2日間の来場者数は2000人を超えた。各地に分散避難した村民の3分の1以上に相当する方が来場されたことになる。資料救出を端緒とした「いいたての歴史と風土」展の企画が、村民文化祭復活への動きに発展し、人々の「生きがい」再生に希望をつなぐ形となった。会場には、久々に対面した村民たちの笑顔と涙が溢れた。
 今回の展示が飯舘村に特化した背景には、警戒区域に指定された原発被災市町村からは資料を救出できなかったという別の事情がある。これについては、本年度から行政による対応が進められている。
(本間 宏)

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 「いいたての歴史と風土」展示資料紹介
【馬代廿分一囲帳】菅野義信家文書

 江戸時代の飯舘村は、山中郷(現飯舘村及び相馬市・浪江町・葛尾村の一部)に組み込まれており、東北有数の馬産地であった。人々は野飼い(放牧飼育)で馬を育て、郷内で開かれた糶駒(馬の競売)には、700~800頭の馬が出され、各地から多くの仲買人が集まったという。山間部に暮らす山中郷の人々にとって、この糶駒は最大の現金収入であり、馬は生活に不可欠な存在であった。
 これに加えて、山中郷では、糶駒で得た収入の20分の1を積み立てる「馬代廿分一囲制」を採っていた。本書は、その積立金台帳であり、万延元年(1860)の各家の積立金額が記されている。そして、火盗難、親族の病難、婚礼、建物の普請などの際に積立金がおりるとある。
 馬産は大切な収入源であるとともに、もしもの時の備えともなり、さらには、金融資本として地方産業の発展にも寄与することとなった。

【養育料帳】菅野義信家文書
 山中郷を領知していた相馬中村藩は、江戸時代中期以降の度重なる飢饉と、貧困の中で行われた間引きにより人口減少の一途をたどっていた。そこで、同藩が人口増加策として採用したのが、「赤子養育仕法」である。同仕法は、間引きの厳罰化と養育費支給を制度化したもので、着帯(妊娠5ヶ月目)と出産などを記録管理し、これに応じて養育費が支給されるものであった。   
着帯御届の頁             養育料定の頁
本書は、明治3年(1870)の着帯・出生届と養育費支給を書き記したものである。4人目の出産までは出産のたびに米8升、5人目からは米1俵・金3分を支給すると定めている。相馬藩では、苗字帯刀を許すケースも見られ、少子高齢化の現代と同様に、育児支援に力を入れていたことが窺える。

【御固メ処控帳】佐藤誠家文書
 山中郷には、在郷給人と呼ばれる武士が、農民とともに在村していた。彼らは、土地を耕し年貢を納める一方で、武芸の稽古を行って有事に備え、平時には、代官のもと役人として地方支配の一端を担っていた。
 戊辰戦争時は、彼ら在郷給人が動員され活躍した。本書は、在郷給人の佐藤京治郎が従軍・警備を記録したもので、月日・場所・任務が記され、磐城平城陥落の7月半ば以降の動きが追える。山中郷の在郷給人は、当初官軍への備えとして、現浪江町・葛尾村に数日間駐屯した。しかし、相馬藩は早々に官軍へ降伏したため、以後は奥羽越列藩同盟側の仙台藩との戦いに移り、「笹町戦争」「玉野戦争」に加わるなど、4ヶ月間、現宮城・福島県境の守備を務めた。
 また、明治初期、大規模な農民騒動が福島県庁へ押し寄せた際も、県庁警衛などに山中郷の在郷給人が派兵された。京治郎はこの動員についても別史料に記録を残している。これらの史料からは、山中郷の在郷給人が果たした役割を詳細に知ることができる。    
(小野孝太郎)

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