トップページ福島県史料情報>第35号

福島県史料情報 第35号(平成25年2月25日発行)

 
目 次
 山本権八(ごんぱち)父子と『旧会藩士戦死名簿・貫属(かんぞく)士族名簿』
『旧会藩士戦死名簿』(福島県神社庁文書553号、部分)
 上に掲げた史料は、『旧会藩士戦死名簿・貫属士族名簿』(福島県神社庁文書553号)と題された若松県作成の公文書である。この簿冊は、明治2年(1869)の『旧会藩士戦死名簿』、明治7年の『貫属士族名簿』の清書本および同稿本、の3冊が順に編綴(へんてつ)されている。「会藩」とは会津藩を、「貫属」とは本籍地を意味する。いずれも若松県の罫紙に書かれており、明治9年8月21日に若松県が廃止になった際に福島県へ引き継がれ、社寺兵事課で永久保存文書として管理されていたものである。これは、当館で昭和62年(1987)以来公開されてきたが、これまで戊辰戦争の研究では全く利用されておらず、後世の聞き書きや回想録とは異なり、いわば新出の一次史料と言ってもよいであろう。
 『旧会藩士戦死名簿』は、戊辰戦争終結直後の明治2年に若松県の戸籍係によって会津藩関係の戦死者2634人が書き上げられたもので、その内訳は、男2390人、女201人、農兵43人である。氏名はイロハ順に士・卒別に分けられ、戊辰戦争時の所属・役職および続柄なども記されている。なお、当時の慣例で女性の実名は記されておらず、父あるいは夫との続柄が記載されているのみである。
 上の図版では、戊辰戦争での会津藩関係戦死者として山本(新島)八重(やえ)の父・山本権八と八重の弟・山本三郎、八重と面識があったとみられる山川大蔵(おおくら)(浩)の妻・登勢(とせ)が載せられている。権八の次男である三郎は会津藩諸生組に属し、慶応4年(1868)1月5日、鳥羽・伏見の戦いに続く淀の戦闘において負傷したため船で江戸に送られ、芝にあった会津藩中屋敷で他界した。また、権八は会津藩玄武士中伊与田隊に所属し、同年9月17日に城南の門田一ノ堰の戦いで戦死している。
(渡邉 智裕)
   
目次に戻る

 
 春日神社の神道裁許状
 昨年度刊行した『福島県歴史資料館収蔵資料目録』第43集には、菊地武彦家文書13点を収録した。同文書群の特色は、神祇管領長上(じんぎかんれいちょうじょう)吉田家が発給した元禄15年(1702)から弘化4年(1847)にかけての神道裁許状・先触(さきぶれ)など9点が存在し、これは春日神社(大沼郡昭和村野尻)および稲荷神社(同前)の祠官(しかん)という家職の関わりで藤原姓菊地家に伝わったものである。これらの神道裁許状は、菊地家の由緒を示す重宝として、十六菊・五七の桐紋所漆塗り木箱に収められ、代々伝えられて今日にいたっている。
元禄15年(1702)2月10日付神道裁許状
(菊地武彦家文書3号)
 左に掲げた文書は、元禄15年2月10日付の神道裁許状(菊地武彦家文書3号)である。これは、神祇管領長上正三位(しょうさんみ)侍従吉田兼敬(かねゆき)(1653―1732)から奥州大沼郡野尻村春日大明神祠官菊池(地)若狭守(わかさのかみ)光次宛に出された朱印状である。その内容は、恒例の神事参勤の際には風折烏帽子(かざおりえぼし)ならびに狩衣(かりぎぬ)を着用してよいとの許可書である。 
 風折烏帽子とは、頂辺の峰の部分を左または右に斜めに折った烏帽子のことである。神祇管領長上とは、卜部(うらべ)姓の吉田家の当主が神道界の首長であることを主張し、自称した称号のことをいう。神社・神職を支配していた吉田家が諸国の神社に位階や神号などを授けた文書のことを宗源宣旨(そうげんせんじ)といい、古文書学では神道裁許状とは宗源宣旨のうち神職に出した免許状のことをいう。江戸時代の中期以降では、神道裁許状には大高檀紙(おおたかだんし)と呼ばれる大振りの立派な料紙(りょうし)が用いられ、文書自体が権威をも具現化していたのである。
 文化6年(1809)成立の『新編会津風土記』では、菊地信濃(しなの)義次が春日・稲荷両社の神職であったと記され、上掲の元禄の神道裁許状も引用されている。菊地氏が遅くとも寛政4年(1792)2月8日には稲荷神社の神主も兼ねていたことは、菊地武彦家文書の神道裁許状からも裏付けられる。
(渡邉 智裕)
 
目次に戻る

 
 高札建置願いに見る庶民の姿
 文政4年(1821)、上飯坂村横町・土城町(現飯坂温泉駅西側)水守の平次兵衛・庄兵衛から町御役元へ願書が提出された(草野清五郎家文書47号)。本書は、封紙に糊付けされて高札図・本紙が続く継紙となっている。差出人の水守は、庶民から選ばれた用水・堰などの管理者であり、元禄2年(1689)に赤川堰から村内に町用水が引かれたほか多数の堰を有した上飯坂村では、彼ら水守が村行政において重要な役割を果たしていた。本紙では、用水管理のため、堰筋に右図のような高札を建てることを提案したのである。
高札図
 高札は、幕府・領主などが、一般庶民に法度・禁令などを伝達するため、町辻・橋詰・番所・村役人宅といった人々が集まる場所に、板札に墨書で文言を記して掲示したものである。その内容は、忠孝奨励やキリシタン禁制といった民政の根幹を示したものから、浪人手配・博奕禁令や、そのほか地域性に応じて建てられたものもある。下が本書の高札図に記された文言である。
「定
  一、町用水之儀ハ、暮六ツ時より明六ツ迄町内へ引取、朝五ツ時より七
    ツ時迄田方相用ひ可申事右心得違有之、夜中ハ申不及夜明罷越田方
    へ引取申者有之候ハヽ、為過料銭壱〆文ツヽ差出させ、其上水番十
    日之内為相勤メ可申事
      右之趣心得違無之様堅相心得可申事
         月日        役元
                   水守
                       ケ様ニ弐三枚も立申度候」
 当該用水は、町用水兼農業用水であり、暮六ツ~明六ツ(18時~6時)は町内、朝五ツ~暮七ツ(8時~16時)は田に水を回すことを定めている。また、夜中密かに田へ引水した者には、罰金及び10日間の用水の夜番を勤めさせるとある。
 高札が願い通り建てられたかは不明だが、高札は為政者が建てたものばかりではなく、本書のように庶民の要望により建てられたものもあった。本書からは、資源管理に気を配り管理徹底を進めた庶民の姿が垣間見えるとともに、用水が庶民生活に直結した重要な問題であったことが窺える。
(小野 孝太郎)
 
目次に戻る

 
 被災ミュージアム再興事業について
 被災ミュージアム再興事業は、東日本大震災の直後に発生した東京電力福島第一原子力発電所事故により設定された警戒区域内および被災した資料館等に収蔵・展示されていた文化財を救出し、福島県文化財センター白河館に設置する仮保管施設へ移動・保管したうえで資料の点検・再整理と展示公開することが目的である。(財)福島県文化振興財団は福島県教育委員会の委託を受け、一時保管先である旧福島県立相馬女子高施設での資料整理業務、同施設から「まほろん」仮保管施設への搬送業務、「まほろん」での展示公開業務を行った。平成24年9月5日、10月24日、11月21日の3回にわたって福島県被災文化財等救援本部により富岡町・大熊町・双葉町の資料館から文化財を救出、一時保管先の旧福島県立相馬女子高施設に搬送し、運び出した箱数は延べ1200箱以上となった。(財)福島県文化振興財団では平成24年11月から平成25年1月までの期間、旧福島県立相馬女子高施設において警戒区域の3町から運び込んだ文化財の整理作業を行った。整理作業の内容は開梱・クリーニング・写真撮影・再梱包・目録作成などで、その点数は5000点以上に及んだ。整理した資料の内容は、考古資料、民俗・民具資料、古文書、公文書、自然資料、絵画などである。
整理作業の様子
 考古資料は、各町の発掘調査で出土した遺物が主で、町史編纂事業等で集めた資料も含まれる。民俗・民具資料は農具や生活用具などの他、甲冑や相撲の化粧回しなども見受けられた。古文書は近世の地方文書のほか検地帳や陣屋絵図なども確認された。公文書は旧役場文書の他、地籍図や丈量長、町史編纂資料などである。
 今回の事業で整理した文化財は、避難を余儀なくされている各町民の財産であり、大切な「心の絆」。今後、それらの文化財が「ふるさと復興」への励みとなる時が来ることを心から願いたい。
(山内 幹夫)
目次に戻る

 
 
 震災資料の収集と活用に関する課題
 福島県歴史資料館では、東日本大震災に関わる様々な体験・記憶・教訓を次世代に伝えるため、「東日本大震災等収集保存活用事業」と名付けられた県事業を担当している。
 この事業の中で最も重点を置いているのは、被災者・支援者への直接インタビューを行い、災害体験に関する生の証言を映像に記録する作業である。映像機器の前で証言するのは勇気の要る事であり、甚大な被害を被った方々の心情を配慮し、協力を躊躇される方々も少なくない。しかし、災害の教訓を後世に生かすためには、百人百様の経験を、信頼度の高い方法で記録する事がどうしても必要である。情報収集のため県内各地に委嘱している資料調査員の方々とともに、ねばり強く作業を継続している現状である。
 このほか、被災前・被災中・被災後の状況を記録した写真・動画のほか、体験手記、文集、避難所での配布資料や貼り紙、避難者どうしの連絡紙、生活再建・地域再生に関する記録物など、様々な資料についてもご提供を呼びかけている。それらの資料は、すべてが貴重な歴史資料であり、個人のプライバシーが侵害されない範囲において、将来的に誰もが活用できるよう整理・公開される予定である。
 被災者の方々と接する中で一様に発せられるのは、「原発事故さえ無ければ」という言葉である。津波で家族や家屋を失っても、同じ境遇に置かれた地域住民と協調することが可能であるならば、生活を再建することも不可能とは言えない。だが、福島第一原子力発電所の事故は、県民の生命と健康にかかる直接的打撃のみならず、地域の自然・資源・施策・産業・伝統・文化・歴史遺産等にいたる全範囲に被害をもたらした。金銭による賠償だけでは解決できないこれらの課題を克服するには、過去から現在に至るまでの資料を保護・修復し、後世に伝える態勢を整備する必要がある。その意味においては、全ての分野の資料が収集されないかぎり、真の「震災アーカイブ」とはなり得ない事を痛感するのである。
 震災記録の収集活動は、総務省・文部科学省等をはじめ、大学・図書館・市町村・民間企業・NPO等においても推進されている。今後はこうした活動を横につなぐ試みも必要となる。世界が「福島」を注視する今こそ、福島県自らが「震災アーカイブ」構想の具体化を図らねばならない時であろう。
(本間 宏)

 
目次に戻る

 
 地域史研究会活動情報 NPO法人常磐炭田史研究会 
■常磐炭田の略史
 常磐炭田は日本の近代化や戦後の経済復興に必要な石炭を大量に首都圏中心に供給して来た。
 明治となり蒸気エンジンは軍艦ばかりでなく、鉄道や広く製造業などに導入され石炭の需要は鰻上りとなる。特に明治10年(1877)年に起こった西南戦争により九州からの石炭が途絶すると、首都に近い常磐炭が俄然注目される所となった。
 やがて炭鉱はいわきを中心に一大産業となるが、その後浮沈を繰り返しながらその歴史を積み重ねてきた。昭和30年頃から石油や輸入炭に押され斜陽化して各地で閉山が相次ぐ…。

■研究会の活動
 隆盛を誇った石炭産業が全面閉山し、いわきから一塊の石炭も出なくなってから30年以上の月日が流れ、関係者は去り或いは高齢化が進み、資料は散逸し「石炭の記憶」は日を追って薄れている。危機感を感じた関係者が10年前に任意団体「常磐炭田史研究会」を立ち上げた。主な目的は「石炭の記憶」を「記録」し、資料を収集整理し次世代に残す事である。
 現在会員数は80名、賛助団体は7団体である。一昨年末NPO法人となり現在に至る。

■平成24年度の主な事業
○調査・研究事業
①産業遺産の学術調査(継続)  ②「ほるる」石炭部門解説書作成  ③常磐炭田炭鉱企業変遷史の作成
④第2回全国石炭産業関係博物館等研修交流会への出席  ⑤常磐炭田茨城地区への巡検

○資料取集事業
①寄贈品の記録・整理・保管  ②「常磐炭田聞き書き調査3カ年計画」の仕上げ

○情報受発信事業
①機関誌第10号発行(創立10周年記念号)  ②記憶の世界遺産「山本作兵衛コレクション展」の開催
③「ヤマの記憶~菊地正男絵画展」の開催

■片寄平蔵(かたよせへいぞう)生誕200年記念事業
 常磐炭田いわき地区で石炭を発見し、その後の隆盛の基礎を作った平蔵を顕彰する事業が地元各団体で計画されている。当会もそれに参加し地域起こしの一助になるよう活動中である。
(会長 野木 和夫)

目次に戻る

 歴史資料館の一年
 福島県歴史資料館は、災害復旧工事及び耐震改修工事のため、昨年2月27日から9月28日まで、臨時休館となりました。工事休館中は歴史資料館への立ち入りができないため、一般利用は原則としてお断りせざるを得ませんでした。しかし、県内各地の災害復旧において、明治期の地籍図・地籍帳・丈量帳が必要とされる場合が多かったため、これについては、事前予約制で閲覧希望を受け付け、隣接地に設けた仮事務所内で閲覧していただく措置を講じて対応しました。
 工事の完了を受け、歴史資料館は昨年9月29日に再開館しました。再開館と同時に、原子力災害による全村避難にともなって飯舘村から寄託された資料を展示する「いいたての歴史と風土」展を開催しました。会期中、飯舘村公民館等との共催により、「いいたて村文化祭」も実施し、多くの村民の方々にご来場いただきました。
 また、半年間という限られた開館期間でしたが、例年と同様にフィルム上映会を3回、古文書講座を4コマ(2日間)、地域史研究講習会1回を実施しています。
 さらに、自主文化事業の一環として実施した大河ドラマ「八重の桜」歴史講演会・トークイベントにおいて、関連資料のミニ展示を行いました。この資料は、現在開催中の「新公開史料展」にも展示しています。
 緊急雇用創出事業による行政文書の整理も進み、館の業務が少しずつ通常ベースに戻りつつある一方で、文化財レスキュー事業、被災ミュージアム再興事業、東日本大震災等収集保存活用事業のほか、被災地の歴史資料の保護支援も行うという慌ただしい一年でした。
(本間 宏)

目次に戻る