トップページ福島県史料情報>第37号

福島県史料情報 第37号(平成25年10月25日発行)

 
目 次
 霊山神社宮司となった西郷頼母(たのも)

明治31111日付霊山神社創建発企人資格永続規定(日下金三郎家文書807号、部分)

 幕末の会津藩家老西郷頼母(1830~1903)の実名は近悳(ちかのり)といい、戊辰戦争敗戦後の明治2年(1869)には西郷姓から保科姓へと改め、保科近悳と名乗るようになる。
 霊山神社(伊達市霊山町大石)は明治14年5月21日に落成し、同18年4月22日に別格官幣社に列せられた。同22年5月には、近悳が霊山神社宮司に就任している。近悳はこれ以前にも国家神道に深く関わっており、明治8年には東白川郡棚倉町の都々古別(つつこわけ)神社の宮司に任ぜられ、また明治13年には旧会津藩主である松平容保(かたもり)が宮司を務めていた日光東照宮で禰宜(ねぎ)となっていたのである。
 上に掲げた文書は、明治31年11月1日に霊山神社宮司保科近悳から同社創建5家のひとつである日下金兵衛へ宛てられた霊山神社創建発企人資格永続規定(日下金三郎家文書807号)である。
 内容は4箇条からなり、具体的には以下の通りである。第1条は、佐藤善七・日下金兵衛・堀江里・脇屋次郎・西尾元詢の創建5家は神社に縁故あることにより子々孫々まで神社と関係を持つこと。第2条は、神社に関する重大事件処分の際は5家が神社職員の協議に預かること。第3条は、神社維持方法等で必要と認めるときは意見を提出できること。第4条は神社祭礼の通知案内を受け、祭礼の際は烏帽子(えぼし)直垂(ひたたれ)の装束での参列が可能であり、神饌を伝供する場合もあること。これらの4箇条は創立5家が協議して要望したものであり、10月28日に福島県知事山田春三から正式の認可を受けている。
 この規定は、その筆跡から近悳の自筆とみられ、同文の規定が堀江里など他の創建5家に対しても出されている。近悳はこの翌年の明治32年4月に霊山神社宮司職を辞した。
渡邉 智裕
   
目次に戻る
 
 県庁文書に残る会津藩分限(ぶげん)
 県庁文書には、しばしば江戸時代の諸相を窺い知ることができる資料が残されている。「分限帳」(明治・大正期の福島県庁文書3910)と題された本書は、163丁からなる大判型竪帳で、会計課管理を指す、「會」と「福島縣」の記入、「永久保存」「記入済」押印がなされ、外題の右上には鉛筆で「会津藩」と書き加えられている。中を開くと再度「分限帳」と表題が記されており、本来の「分限帳」に新たな表紙を加えて補修された状態となっている。これにより、資料目録の作成年代は補修されたと考えられる明治37年(1904)で収録されている。
分限帳(見開き部分、若年寄・奉行の項目) 
 「分限帳」とは、大名の家臣の氏名・役職・禄高などを公的に記録したものであり、本書では、会津藩家老の武川源介以下約1250名(氏名ありのみ)の役職・知行高が列記されている。分限帳本来の作成者に関する記述は無いが、記述内容の詳細さや、浄書された字体、料紙から、原本に近いものとみられる。
 収載者の範囲については、「近習(きんじゅ)・外様(とざま)」(文官・武官)の内、「通目見江(とおりめみえ)之者」(大勢列座の場に藩主が通る形での謁見が許される班席)以下までもが含まれ、「奉行」・「代官」や、「絵師」・「京都用達(ようたし)」・「大工棟梁」などがみられる。そのほか、「足軽」・「町検断名主」などの総禄高や、地方(じかた)・蔵米(くらまい)取り(知行地・俸禄米が与えられた)寺社についても記載している。
 本書の来歴は、県庁文書の「文書目録」から、明治9年の若松・磐前(いわさき)・福島県合併時に若松県から引き継がれ、第3文庫で保管されていたことが確認できるが、これ以前については、今後の重要な課題である。また、分限帳の該当年については、老中・若年寄の記載内容から、宝暦2年(1752)前後と比定される。同時期の会津藩の分限帳は、あまり残されておらず、本書からは、江戸時代中期の会津藩の家臣団構成が詳細に明らかとなる。
(小野 孝太郎)

目次に戻る
 
 江戸時代の村の休日
 現代の休日は、統一的に定められているが、江戸時代の村では、村が主体的に休日を設けていた。「年中休日書上帳」(小神(こがみ)村細川忠男家文書その2―309)は、文化4年(1807)、下手渡(しもてど)藩の指図に応じ、小神村(現川俣町同大字)名主清次兵衛らが、村の休日を書き上げ御役所へ提出した控である。同藩は、前年より小神村を領知しており、領内の実態把握のため提出を求めたとみられる。詳細は下の通りである。
  正月―朔日~15日、16日念仏講、17日山神講、20日ゑひす講、24日愛宕講、注連神事
  2月―朔日、彼岸中日、初午、8日疫神祭、16日蚕祭
  3月―2日、13日木幡弁財天祭礼、17日川又観音祭礼、28日鎮守羽黒祭礼、田打仕廻休
  4月―8日薬師祭、苅敷始終ニ休
  5月―田植仕廻シ休
  6月―朔日、15日、24日

  7月―7日、盆14日~17日、23日神事送、二百十日
  8月―朔日、15日、彼岸中日、注連神事
  9月―朔日・2日鎮守春日大明神祭礼、9日・10日川又春日祭礼、29日、稲苅揚
 10月―10日念佛講、17日山神講、20日ゑひす講
 11月―朔日・2日大師講、15日
 12月8日、27日年用意、春冬6日奉公人ハ洗濯隙休

年中休日書上帳(部分、正月~4月の休日)
 末尾には「〆(しめ)六拾八日」とあり、諸節句や、「春日大明神」などの祭礼日、「田打仕廻(たうちしまい)休」といった農休(のうやすみ)が見られ、当時の休日は、年中行事や農耕に深く結びついていた。
 なお、宝暦8年(1758)「従御公儀様被仰渡候遊日(ごこうぎさまよりおおせわたされそうろうあそびび)村中連判一札」(同家文書―4)では、磐城平藩が同村の休日の上限を35日としている。江戸時代後期、労働からの解放もあり、全国的に休日の増加傾向が見られたが、小神村でも半世紀で倍増したことが分かる。
(小野 孝太郎)

目次に戻る
 
 大正時代の恵隆寺観音堂の修復
 明治37年(1904)2月18日、河沼郡会津坂下町大字塔寺字松原にある恵隆寺観音堂は、古社寺保存法に基づいて特別保護建造物に指定された。この時の指定名称は「観音堂(立木観音堂)」で、現在は戦後の文化財保護法により「恵隆寺観音堂」の名称で国指定重要文化財(建造物)となっている。
木造千手観音立像
 当館には大正時代初期における恵隆寺観音堂修復に関する貴重な資料が収蔵されており、それは『特別保護建造物立木観音堂修理関係書類』(福島県神社庁文書102号)という表題の公文書である。
 明治45年5月13日、恵隆寺住職・信徒惣代連名で特別保護建造物修理願いが河沼郡役所を通じて福島県に提出され、これがその重要な切っ掛けとなった。それによると経緯は以下の通りである。これまで充分な修理ができなかったため堂宇の荒廃は甚だしく、雨漏りによって軒柱や床板は著しく痛み、おそらく軒上の部材も多数腐朽しているものとみられる。会津地方で最も著名な特別保護建造物が廃頽するのを座視するは忍びず、明治維新後の交通機関の発達で地元塔寺の中心産業であった運送業が廃れ、さらには昨年の大火で全村中約8割の家が焼失してしまったので、特別に修理してほしいと強く願い出たのであった。
 地元住民による観音堂修復の熱意と関係機関の努力の甲斐もあり、4ヶ月後の大正元年(1912)9月10日に内務省は観音堂修理設計調査のため内務省嘱託阪谷良之進(さかたにりょうのしん)を現地に派遣する決定をしたのである。
 3年8月27日には修理が国より正式に認められ、翌4年4月には阪谷が工事監督に、宮田善助を現場付主任に、柳田菊造を助手に任命した。工事自体は同4年4月1日から始まったが、直前の3月26日には木造千手観音立像(現国指定重要文化財〈彫刻〉)が古社寺保存法により国宝の指定を受けたため工事による損傷のないよう厳重に養生された(上図)。7月17日には仮設建物設置、翌5年5月14日に屋根の葺き替えが完了し、9月13日には阪谷と住職は福島県へ精算書を添えて工事竣工届けを提出している。
 なお、東日本大震災により木造千手観音立像は被害を受けたが、修復が無事終わっている。
(渡邉 智裕)

目次に戻る
 
 被災歴史資料救出の現状

旧警戒区域における資料救出作業
 東日本大震災と原発事故の発生から2年半以上を経過した。この間、多くの方々の尽力により被災歴史資料の救出・保全活動が進められ、本誌においてもその状況と課題を随時報告してきた次第である。
 文化庁の提唱により組織された東北地方太平洋沖地震被災文化財救援委員会は平成25年3月に解散したが、福島県には原子力災害という特殊事情が存在するため、いまだ避難指示区域内の歴史資料の保護は不十分な状態が続いている。
 福島県被災文化財等救援本部などによるこれまでの現地活動においては、資料表面の放射線量調査で安全性が確かめられた資料の搬出・保全作業が実施されているが、放射性物質よりも、長期間の放置によるカビの繁殖の方が問題視されることが判明した。
 福島県からの継続支援要請を受けた文化庁は、国立文化財機構に支援体制の整備を要請した。同機構は、本年7月に「福島県内被災文化財等救援事務局」の設置を決定し、これに(公財)日本博物館協会と全国美術館会議が参画する支援体制が構築された。同事務局と県内関係機関・地元自治体の協働により、現在資料救出活動が実施されている。
 救出・保護を図る対象には、指定文化財や公的施設の収蔵資料にとどまらず、地域の歴史・民俗・自然史等を後世に伝える様々な分野が想定されている。住民避難が長期化している現状においては、これまで周知されていなかった個人所有歴史資料の保護も課題となると思われる。現在、当該被災自治体や、当館を含む福島県被災文化財等救援本部の加盟機関の手により、保護対象となる資料の情報収集が進められている。
 避難区域に限らず、保存措置を要する被災地の古文書等については、なお所在情報が不十分である。ぜひ多くの方々から情報をお寄せいただければ幸いである。
(本間 宏)
 
目次に戻る
 
 地域史研究会活動情報 
熱塩加納郷土史研究会
1、研究会の発足
 平成5年7月、旧加納幼稚園舎に約800点を収蔵する民具収蔵庫を開所し、同時に公民館主催の古文書解説講座に参加の16名により郷土史研究会設立の準備を進め、翌6年4月、会員35名により郷土史研究会が発足した。
 初代会長には、文化財保護審議会長・村史編纂委員・福島県文化財保護指導員の佐原義春氏が選ばれた。 

2、活動の状況
 活動の目的は、郷土の史跡・名勝・天然記念物等の調査とその保存や広報につとめることであり、地域文化の向上と会員相互の親睦をはかっている。年会費は現在4000円。

機関誌「温故知新」創刊号~第19号


熊野神社前で説明を聴く参加者
(イ)機関誌「温故知新」の発行
 平成7年4月、創刊号を発行。会員19名が執筆、250部を印刷、県内各関係機関団体等に寄贈すると共に会員各位に配付、以後毎年発行し、平成25年3月に第19号を発行した。内容は会員の研究発表や、専門家の講話の内容、俳句や随筆など多彩で、その年の「村のできごと」などを毎号掲載している。
 温故知新特集号「会津北部における源翁(げんのう)禅師の足跡」では、およそ640年前の応安3年(1370)、那須野ヶ原の殺生石済度(さいど)で有名な源翁禅師が開山した慶徳寺と、5年後に開山した熱塩示現(じげん)寺の間を、同禅師が往復された際に通ったと各地に語り継がれる「源翁道」をとりあげた。その足跡を後世に伝えるため、平成18年から3回に亘り会員と共に歩き、地域の方の貴重な資料とご案内を戴き、平成22年に300部を発行し大変好評をいただいた。
(ロ)講演会
 福島県立博物館の学芸員や、郷土史研究の専門家の方を招聘しての講演や、本会の顧問会員を講師に毎年2~3回講演会を催している。
(ハ)研修会
 毎年1~2回の県内の遺跡巡りを実施のほか「越後と会津を語る会」(越後・会津で毎年交互に開催)や「会津葦名一族研究会」の事業に参加している。

3、今後の課題
 最盛時は50名を数えた会員数も現在21名と減少しており、会員の高齢化と併せて大きな課題となっている。
(会長 大澤 君一)

目次に戻る
 
 平成25年度 行事予定(平成25年10月~平成26年2月)
1.展示公開
 『描かれた江戸時代の信夫郡』
  福島城下の町割り、奥州街道・板谷街道の宿場、阿武隈川の治水の様相などが描かれた、江戸時代の信夫郡に関
 する絵図の展示です。

 【会期】平成25年9月28日(土)~12月23日(月)
 【休室日】平成25年11月11日(月)・12月2日(月)・12月16日(月)
 【解説会】平成25年11月3日(日)・12月8日(日)、午後1時から50分程度

 「新公開資料」展
  『福島県歴史資料館収蔵資料目録』第44集に収録され、新たに公開となった資料をご紹介します。

 【会期】平成26年1月11日(土)~3月30日(日)


2.フィルム上映会
 【上映作品】①「鹿島さまの村―秋田県湯沢市岩崎民俗誌―」・②「からむしと麻―福島県大沼郡昭和村大芦・大岐―」
 【日時】平成25年11月17日(日)午後1時から。
 【会場等】福島県文化センター視聴覚室にて上映。参加費は無料。

3.地域史研究講習会
 内容調整中。決まり次第当館ホームページにてお知らせします。
 【開催日・会場等】平成26年2月23日(日)午前10時~
 【場所】福島県文化センター小ホール、要資料代。
目次に戻る