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福島県史料情報 第38号(平成26年2月25日発行)

 
目 次
 摺上川の氾濫から上飯坂村を守る蛇籠

文政元年(1818)8月10日付陸奥国信夫郡上飯坂村摺上川川除築立御普請所絵図(堀切三郎家文書264号、部分)

 上に掲げた図版は、文政元年(1818)8月10日に作られた陸奥国信夫郡上飯坂村(福島市飯坂町)における摺上川の川除築立を普請する場所を描いた絵図に付された川除築立の詳細図の一部である。
 近代以降の地図は上が北であるのに対し、江戸時代の絵図の上や方位は、絵図の作成者によって異なり、凡例・文字の向き・建物の描かれ方などによって個別に判断していく必要がある。この絵図の場合では、右が北で、左が南、樹木の描かれ方や文字の向きから作者は右を上と意識して描いている。
 手前右下の波打つ水流が摺上川の本流で、右から中央下へ向かって流れている。右岸には石垣の堤防が頑丈に構築され、その外側の四重の丸太杭は石垣を支える役目と決壊した場合に水流を弱める働きがある。さらに水流を弱めるために蛇籠を設け、その直ぐ上手には4列に木杭を打ち、流木などから蛇籠の破壊を防いでいる。また、その直ぐ下手には、力学的に強い三角形状の木枠や四重の木杭により蛇籠を水流から支える構造になっている。
 また、別の絵図では中州は石砂地や草野となっており、河川の氾濫原は畑である場合が比較的多い。一般に河川は水流の速いカーブする外側で決壊し、肥沃な表土を流し去り、土砂が耕地に入り込み、甚大な被害をもたらすのである。上飯坂村全体では摺上川の右岸の耕地や集落を水害から守るため、四重の本枠や4ヶ所にわたって蛇籠を設けており、当時の治水の技術や減災の方法が理解されるのである。蛇籠とは、中に石などを詰めた粗く編んだ長円形の竹または鉄線製の籠のことで、土砂の防止や水流の制御などに江戸時代以降は広く用いられた河川土木技術である。ここでは、太い木枠の内周囲に竹木を詰め、その中に大きな石を入れている。
渡邉 智裕
   
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 慶長五年の安子島城

安子島城跡地籍図(明治18年) 
 左の図は、旧安積郡丸守村大字安子島字南町地籍図の画像に加筆・加工を施したものである。この一帯の地形は、圃場整備により大きく変化しているが、この図によって安子島城跡西側部分の旧状を類推することができる。橙色に彩色された耕地のうち、水田部分を地籍帳の記載に従って白ヌキ加工すると、左図のとおり堀跡の形状が見事に浮かび上がってくる。城館跡を調査するうえで、地籍図・地籍帳・丈量帳が極めて有効であることを示す好例である。
 郡山市による発掘調査の結果、図中①の区域内からは夥しい遺構群が発見されたが、②の区域からは目立った遺構が検出されなかった。この点について広長秀典氏は、城域改修の中途で軍事的緊張が失われ、未完成のまま放棄されたためであろうと推定している。
 高橋明氏は、慶長5年の7月下旬から8月上旬の直江兼続書状に基づき、兼続が安子島城を拠点として全方位にわたる司令を発していたとする説を具体的に論じている。後世記録ではあるが、「本荘氏記録」(渡邊三省氏翻刻)には、慶長5年8月に本庄繁長が「安子ヶ嶋」で兼続と対面したとする記載があり、高橋明氏の説を補強するものとなっている。直江軍駐屯のため拡張され、兼続の移動により工事が中断された曲輪が上図②であったと推測できまいか。
 兼続による司令拠点は、『直江兼続と関ヶ原 慶長五年の真相をさぐる』に記載の通り、安子島、福島、若松、二本松、米沢の順に移動したと見られる。最近原本が発見された7月27日付け兼続麾下四将宛て兼続書状は、安子島城から福島城に向けて送られた可能性が高い。
 以上を踏まえると、守山城将であったと見られる本庄繁長は、安子島での兼続との談合を経て、最上脅迫に向かう兼続麾下諸将に替わって福島城に入ったものと考えられる。繁長の役目は、伊達政宗に対する威圧的和睦交渉にあり、重要任務に向かう繁長を激励したのが8月25日付け繁長宛て上杉景勝書状であったと解釈できよう。
(本間 宏)

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 村絵図と古文書―貝田村山形山の御林―
 宮城県との県境にあたる国見町貝田地区は、かつて奥州街道の宿場町であった。本誌第13号では、元禄11年(1698)原図作成「奥州伊達郡貝田村絵図」(明治・大正期の福島県庁文書F1983号所収)をとりあげ、同村と宿場の景観をご紹介した。同絵図も含め、江戸時代の村絵図は、測量術による合理性の中にも恣意性が垣間見える点で、近代以降の地図と大きく異なる。そこには、村が重要視していた場所や拠り所となった地などが強調されて描かれていることが多い。
「奥州伊達郡貝田村絵図」
 貝田村絵図に目をやると、宿場の描写の他に、上手(西側)には、縦横の間数とともに「御林」と記され、木々が繁茂する様子が特徴的に描かれた山形山がみえる。「御林」とは、幕府の直轄山林を指し、村民の無断立入りが禁じられ、現地代官により実質的な管理が行われた。

「御林帳」
 江戸時代後期作成の「御林帳」(大沼ハルヨ家文書131号)には、山形山に生えていた樹木の植生状況が記されている。本書から、松・栗・楢・桜・槻の木など、3496本の樹木が生育していたことが分かる。一方で、安永7年~寛政2年(1778~1790)には、約6万本の樹木が枯失したと記述する。
 他史料によれば、同時期、代官の指図で、村人による山形山への植林が毎年のように行われた。しかし、ほぼ全て根付かずに終わり、生育に不向きな険阻な山に苦慮していたことが重ねてうかがわれる。
 村絵図に加えて、伝存されてきた古文書を併せてみることで、村々が抱えた課題や土地柄・風土が新たに浮き彫りになる。
 なお、「貝田村絵図」と「御林帳」は、開催中の「新公開史料展」で公開している。
(小野 孝太郎)

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 「旅行用心集」とふくしま
 現代人でも、海外など見知らぬ地を旅する際には、ガイドブックを手にするように、江戸時代に旅を思い立った人々は、「旅行用心集」を買い求めた。本書は、八隅蘆庵が旅の心得についてを著述し、文化7年(1810)に発兌された板本で、多くの人々に親しまれた。
旅行用心集(庄司家文書Ⅱ3072号)
 その内容は、初めて旅する人に対して、逸る心を抑えて、足に気を使うことを説くに始まり、川越え時や湧き水を飲む際などの道中の注意点や、相宿・飲食や風呂の浸かり方といった宿屋での心得など61ヶ条が冒頭に著述されている。
 そして、寒国旅行、船中用心、道中所持品などの解説に続き、「諸國温泉二百九十二ヶ所」の項目では、ふくしまについての記述が見られる。北は津軽から南は薩摩までの292の温泉を列記される中、ふくしまの温泉については、湯本(いわき)・湯岐・嶽ノ湯・飯坂などが挙げられている。4分の1程の紙幅を割いて触れられていることから、蘆庵がふくしまの温泉に関心を抱いていたことがうかがわれる。
 特に、会津の温泉は、天寧寺・小谷・熱塩・沼尻・磐梯・荒湯・隼人・五畳鋪の8つの温泉がとりあげられ、天寧寺温泉(現東山温泉)については絵入りで紹介している。本書によると、同温泉には、湯槽を2つずつ有するほどの大きな湯宿が20軒以上あり、街中には旅人や樵などで込み合う惣湯が1宇建ち、湯宿の下を流れる湯川にも温泉が所々にあると記されている。さらに、末文には、会津地方の温泉について「但馬の城崎、摂州の有馬等にも勝るべき名湯」と評している。
 旅の心得が詳細に盛り込まれた「旅行用心集」が好評を博した背景には、社会の安定と庶民経済の向上と環境整備の進展を基盤に、江戸時代中期に伊勢参宮を中心とした参詣や旅への関心が高まり、旅の庶民化が浸透していたことが根底にある。
 なお、本書については、4月から始まる「江戸時代の旅―名所図会の世界―(仮)」にて展示公開する予定である。
(小野 孝太郎)

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 阿武隈川舟運と浦高札

浦高札案(円谷重夫文家文書6号)
 「浦高札」とは、江戸時代、幕府や藩が津々浦々に建てた高札で、海難事故による救助の義務や港湾・海岸などに関する法令を箇条書きで記したものである。
 幕府の浦高札は、江戸時代初期の元和年間に掲示されたのが最初とされ、明治6年(1873)に高札撤去が発令されるまで継続して掲げられた。
 史料の浦高札案(円谷重夫家文書6号)は、高札に記載されるべき案文が記されており、記載の日付から、明治2年9月18日~19日に書かれたことが分かる。内容は9ヵ条から構成され、最後の9条目は、太政官日誌の同年9月19日に記載されている津留についての法令であることから、新政府の法令が高札にも反映されていることが分かる。
 この浦高札がどこの場所に掲示されようとしていたかは、表題の「明岡河岸」から推察される。明岡は、阿武隈川西岸の現矢吹町明新地区にあたり、表記の円谷茂惣平は、当時の明岡村の庄屋で、阿武隈川上流部の通船に尽力した人物である。
 江戸時代中頃の上流部の舟運は、福島から太平洋沿岸までの穏やかな下流部の様相とは異なり、川幅が狭いうえに急流が多く、舟運は盛んではない状況であったが、江戸時代後期の嘉永2年(1848)に円谷茂惣平ほか3名の問屋や商人などにより、「阿武隈川通船願」が出されたことを端緒に、通船の事業の取り組みが始まった。
 河岸場(船着場)は、川原田(中島村)・明岡(矢吹町)・中宿(須賀川市)・鬼生田(郡山市)の4ヶ所に設けられ、倉庫などが建てられた。舟の出入りが頻繁になるにつれ、明岡河岸と同様に、他の河岸にも「浦高札」が掲げられたであろうことが容易に想像できる。
 やがて、明治の中頃になり、幹線道路の整備が整ってくると陸上輸送が盛んになり、河川の舟運は衰退して行くこととなる。
 阿武隈川上流域の舟運を開拓し、地域振興のため資材を投じて舟運事業を推進していく上での、責任者としての思いを窺い知ることができる史料である。
(佐々木 慎一)

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 新島襄と交流のあった日下義雄 

日下義雄と可明子夫人
 日下義雄(1852―1923)は、明治25年(1892)8月に福島県出身者で初めて福島県知事となり、明治28年7月まで務めている。その幼名は石田伍助で、会津藩侍医石田龍玄の長男である。また、義雄は、慶応4年(1868)8月23日に飯盛山で自刃した白虎隊士中二番隊士石田和助の実兄としてもよく知られた存在である。
 左の写真は、明治19年7月頃に撮影された長崎県知事に就任したばかりの日下義雄と可明子夫人である。これは昭和3年(1928)に刊行された中村孝也『日下義雄伝』(鈴木重郎治家文書264号)に収録されているものである。日下は明治19年7月19日に36歳で長崎県知事に任ぜられ、同22年12月まで務めている。明治19年は、日下にとって初の地方長官に任官した記念すべき年であると同時に、12月11日には可明子夫人を亡くすという辛い年でもあった。
 明治21年11月17日に同志社大学創設者である新島襄(1843―1890)は長崎県知事の日下に手紙を書き送り、同志社大学設立に関する募金を依頼している。他の事例からこの手紙には、『同志社設立始末』『同志社大学設立の旨意』という小冊子が添えられていたとみられる。新島は大学設立にあたり、人脈の仲介や情報収集・分析のため同志社系の人々を全国に分担・配置し、各府県知事・有力県会議員・実業家・新聞社など地域名望家に協力を依頼していたのである。
 新島の手紙を受け取った日下は、同年12月10日に次のような内容の書簡を新島に出している。先だって帰京の途中で京都に立ち寄ったが、時間がなく面会することができなかった。偶然に船中で同志社長代理の金森通倫に会うことができ、概略については承知した。また、先日は妹の同志社英語学校入学に際して高配を得たのはありがたい。二度にわたって大学設立の手紙をいただき、趣旨には大いに賛同し、応分の寄附を考えているが、今すぐに寄附金を出せないので暫く猶予願いたい。他人への勧誘については徐々に試みるが、長崎は堅実な人が多いので予め御承知置き願いたい。
(渡邉 智裕)
 
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 福島県歴史資料館の一年
 今年度は、同志社大学創立者の新島襄の妻、八重の生涯を描いた大河ドラマ「八重の桜」の放映により、幕末の会津を中心に歴史的関心が高まったことに合わせて、当館では、「八重の時代の人々」と題し、八重が生きた幕末から明治の時代に焦点をあて、八重や新島襄ゆかりの人々に関する史料の展示を行いました。
 この他、文化庁主催である「発掘された日本列島2013」関連地域展「ふくしま再生と文化財」、「描かれた江戸時代の信夫郡」、「新公開史料展」などの収蔵資料によるテーマ展を4回開催しました。
 古文書講座では、「村に伝達された法令を読む」と題し、国見町小坂区有文書を題材に、江戸時代の法令とこれを受け入れる村との関係および小坂村の自治の様子に注目し、4回にわたり読みときました。
 フィルム上映会では、「日本の伝統文化」をテーマとし、収蔵資料展「八重の時代の人々」に合わせて、江戸・明治時代の会津の歴史を映像資料で振り返り、また、祭礼芸能の根底を流れ、日本文化の美意識を象徴する「風流」をはじめ、村の風習、手仕事に関する映像資料を3回に分け上映しました。
 地域史研究講習会では、被災した文化財の修復を通じて明らかになった事実に基づき、歴史研究法への理解を深めました。
 業務の一環である県庁文書の整理も緊急雇用創出事業により滞りなく進み、今後も整理体制を整えながら県庁文書の整理を継続していく予定です。
 なお、昨年度に続き、福島県被災文化財等救援本部の現地活動参加による、被災地の歴史資料の保護活動も行いました。
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