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福島県史料情報 第40号(平成26年10月25日発行)

 
目 次
 近世ふくしまの漂流民と『海外異聞』

イスパニア船に救助される永住丸の乗組員(『海外異聞』巻一、青砥惣一郎家文書191号)

  『海外異聞』は、徳島藩において編纂された漂流記である『亜墨新話』の序文などを削除し、さらに本文の一部を省略して嘉永7年(1854)に5冊本で板行されたものである。これは開国という時代を背景にして営利を目的とし、靄湖漁叟なる人物の序文を付して出版されたと考えられている。
  内容は、兵庫西宮内町中村伊兵衛船永住丸の初太郎の口述による漂流記である。永住丸は1200石積みの樽廻船とみられ、初太郎は阿波出身の岡廻り(会計長)であった。漂流の概要は次の通りである。
  乗組員12人の永住丸は天保12年(1841)8月に兵庫を出帆し、陸奥国南部を目指したが、10月に下総国犬吠埼(千葉県銚子市)沖で強風のため難船し、漂流してしまう。永住丸の別の漂流記『東航紀聞』や陸奥国伊達郡北半田(桑折町北半田)重吉船観吉丸の漂流記である『呂宋国漂流記』によると、永住丸一行は翌年正月に同じく大海原を漂流していた観吉丸に出会ったが、翌日にはその船影は消えていたという。観吉丸は500石積みで、天保12年9月に幕府の御城米450石を積んで8人が乗り組み、10月に宮城郡石浜湊(宮城県女川町)を出帆したが、永住丸と同じ頃に上総国九十九里沖で大風によって難船して漂流していたのであった。
  天保13年2月に永住丸の乗組員は、ルソンからメキシコへ向かうイスパニア船によって救助され、メキシコのカリフォルニア半島で降ろされた。サンホセ・マサトランなどを流浪し、沖船頭善助と初太郎は11月下旬にマカオへ向かうイスパニア船に乗り、翌年正月にマカオへ着いた。後に便船で乍浦へ送られ、漂流民のいる家に案内され、そこでルソンに漂着した観吉丸の乗組員6人と再会を遂げ、12月に日本へ無事帰還したのである。
(渡邉 智裕)
   
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 信夫山の六供社人

手繦御免許之六供官名并宮人七人
「〔御山村黒沼大明神羽黒山大権現六供社人
由緒書上〕」(加藤茂家文書9号)より
 

  信夫山(福島市)は、古来山岳信仰と密接に結び付き、山内に数々の社寺が建ち並ぶ。江戸時代、信夫山の山頂には陸奥国に下向した欽明天皇の太子渟中太命を祭る羽黒山大権現、麓には太子の後を追った御母石比売命を祭神とする黒沼大明神が鎮座し、共に福島藩主板倉家の崇敬もあり庶民の厚い信仰を集めた。
  現在の羽黒神社参道に建つ小社「六供の宮」の社人であった「六供」は、羽黒山大権現・黒沼大明神を語る上で不可欠な存在である。六供社人は、渟中太命・石比売命と下向した従者の末裔といわれ、一家が摂社一宮ずつを有し、年番で羽黒山大権現神主を務めた。当館収蔵の加藤茂家文書は、六供の一家、三寶荒神の社人加藤家に伝わる文書群で、六供の由緒に関する古文書などが残る。
  「〔御山村黒沼大明神羽黒山大権現六供社人由緒書上〕」(同家文書9号)は、文化7年(1810)六供社人注連頭冨田若狭が記した六供の由緒書である。内容は2つに分けられ、前半が元文3年(1738)由緒書を黒沼大明神の神主冨田和泉が写したもので、六供社人の先祖名、社内除地・屋敷不納地(免租地)反別、神事・神楽で務めた笛・大拍子などの役名が記されている。後半は、享和3年(1803)京都吉田家より手繦御免許を授かった六供の官名が列記され、加えて六供の下で社務・神事を勤めた「宮人七人」の名もみられる。末尾には、正月5日の羽黒山から黒沼大明神への神輿の出御と同7日の羽黒山への還御の際、六供社人・宮人七人が供奉・神事・神楽を司ってきたが延宝3年(1675)以来中絶している旨が記されている。これは、延宝年間に起きた羽黒山別当職を巡る寺院間争論が起因していると思われる。
  六供社人は、明治初期に帰農を余儀なくされたが、加藤茂家文書の諸史料からは、信夫山の信仰の中核で神事・社務を司った六供の存在を垣間見ることができる。
(小野 孝太郎)

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 江戸後期の庶民と剣術稽古
  日本での剣術(剣道)は、平安時代~鎌倉時代の武士興起と刀剣製作技術の進歩、さらに室町中期以降の戦術転換により関心を集め、室町後期~江戸時代にさまざまな流派を生みだし、大きく発展した。そして、江戸中期の平和な時代の到来を経て、江戸後期~幕末の諸外国の日本接近、新流台頭、思想的対立などを背景に、武士のみならず町人・農民も武芸訓練を行うようになり、町道場も登場し栄えることとなる。ふくしまでも、幕末に金原田村(伊達市)の農民で民衆思想家の菅野八郎が、自衛組織「誠信講」を組織し剣術稽古を始めるなど、庶民の間でも剣術稽古が行われていた。
上:誓約文言  下:釼術連中加入者名
  文化8年(1811)作成「剱術誓約連中」(草野清五郎家文書54号)と題された横帳は、庶民の剣術稽古に関する史料である。冒頭に剱術連中に加わる際の誓約文言が記され、釼術惣連中から上飯坂村下組(福島市)組頭草野清三郎に宛てられている。誓約文言には、忠孝を励み家業に出精すること、他流試合の禁止、親子にも当流の大事を口外しないこと、師の噂をすることの禁止、口伝授を疎かにしないことなどが書き連ねられている。
  続いて、一つ書きで釼術連中に加わった人々の署名がなされ、「二刀」「中段」などの剣法・構えが記録されている。参加者の名前に苗字が殆ど見られないことからも、庶民の間で行われていた剣術稽古であることが確認される。また、署名に加え血判を行ったとみられる者も多く、誓約の固さを見て取ることができる。そのほか、出身村の記載も所々あり、中野村(福島市ヵ)といった近隣からの参加者が多い一方で、出羽村山郡間沢村(山形県西川町)からの参加者もあり、釼術連中の事が密かに伝播していたことが窺われる。
  口伝授や秘密主義も相まって、本書だけではその実態は不明であるが、江戸後期に庶民を中心として剣術稽古が行われていたことを示す希少な史料である。
(小野 孝太郎)

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 商家に伝わる宅相図
 
「宅相図」(大内史之家文書55号)  
  占いにより家相を判断する際に描かれた図面を家相図もしくは宅相図と言う。図面は、福島県川俣町の旧家であり代々機屋や酒店を営んでいた大内史之家に伝わる宅相図であり、鑑定日の「弘化二乙巳年九月吉祥日」(1845)と屋号と思われる「鯉瀑亭」の名称が確認される。添書きには、「宅命方位曰」とあり、屋敷地の形状と家屋の間取り・向き、付属建物との位置関係などから、家の吉凶禍福を判断したものと思われる。
  図中には、「鯉瀑亭」の敷地内の建物群が描かれており、主要建物である主屋・離れ、付属建物である土蔵・ムロ(室)・木部屋・厩・厠が描かれ、主屋中央から放射状に朱線が引かれ、方角に十二支をあて、易学における八卦の卦名である「乾兌離震巽坎艮坤」と十干「甲乙丙丁戊己庚申壬癸」が書き込まれている。
  主屋と思われる建物には、見世・10畳部屋3ヶ所・7畳半の部屋・庭・土間・便所・ロ(炉)・流・戸棚・押入・床が描かれ、離れには、座鋪・次間・湯殿が描かれている。特に見世と表記されていることからも、この建物が「店」として使用されていたことが分かる。
  日本の家相学は、元をたどれば中国から学問として伝わってきたものが、長い年月を経て日本の気候風土に合わせてゆき、江戸時代に日本独自のものとして発展を遂げたものと言われている。ただし、占いによるものだけに、家相を判断する行為自体は、疑問視されていたようで、明治時代になると建築学の発展により、科学的根拠がないと否定され、迷信の一つとして学問の域からは排除されてきた経緯がある。
  しかしながら、現在でもなお、家相判断により、家の方向や間取りの選定に影響を与え、また、家に不幸があった場合など、因果の究明として語られる場合が多々あるのも事実である。
(佐々木 慎一)

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 白水阿弥陀堂の宝珠・露盤について
  明治35年(1902)7月31日、白水阿弥陀堂(いわき市内郷白水町、現国宝)は古社寺保存法により国の特別保護建造物に指定された。10月9日朝の不審火により床板裏面9尺四方と円柱の一部が焼損し、福島県は11月に内務省の亀岡末吉や吉森繁次郎等へ修理設計を依頼していた。しかし、翌年1月8日、白水阿弥陀堂は暴風のために倒潰するに至ったのである。これは、江戸時代末以来大規模な修繕がなされてこなかった上に、明治初期の廃仏毀釈の風潮により荒廃・老朽化がさらに進んでいたからであった。
白水阿弥陀堂の宝珠・露盤の図
(『白水阿弥陀堂修理工事関係書類』、
福島県神社庁文書101号)

  この時に四注造であった屋根を当初の通り宝形造に直し、同様に茅葺も柿葺へと戻し、屋根の上には宝珠と露盤も復元して据えることにした。宝珠とは九輪などの上に載せる頂上の飾りのことで、露盤とは相輪の基部にある方形の盤のことである。この復元には、工事主任であった吉森の推薦により東京美術学校鋳金科出身でその分野で著名な山本鹿洲(茗次郎)が選ばれた。
  明治36年10月28日、東京市小石川区竹早町63番地の鹿洲は福島県知事有田義資宛に宝珠・露盤の見積書を提出している。その内訳は、25円が原型諸材料と工料、50円は鋳造諸材料と仕上工料、総額にして75円(精算書では78円75銭)であった。原型は木と石膏によって作製されている。
  宝珠・露盤は何時の頃からか紛失して、その様式は不詳であったが、鹿洲は同時代の京都府日野の法界寺阿弥陀堂(現国宝)のものを参考にして模製することにした。鋳鉄製で、厚さの平均は3分、露盤の1辺は2尺4寸2分、相輪の高さは1尺9寸8分、外面は青銅によって古色に仕上げたという。発注を受けてから80日以内に納め、納品場所は上野停車場で、そこから鉄道によって綴駅(内郷駅)まで輸送された。
  実際の宝珠・伏鉢(覆鉢)・露盤は一体化されており、伏鉢の部分には「明治三十七年三月/謹製 於東都氷川閣/山本鹿洲/山本桃邨」と陰刻されている。
(渡邉 智裕)

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 猪苗代町田子沼の縄文土器 

「田子神社古社寺取調書」
(福島県神社庁文書32号より)

  明治29年4月に日本人類学の創始者である坪井正五郎(1863―1913年)は、猪苗代湖東部のJR磐越西線上戸駅東方にかつてあった田子沼から出土した縄文後期の土器を「異地方発見の類似土器」(東洋学芸雑誌第175号)と題する論文の中で「岩代猪苗代湖辺田子沼より出でたるもの」として図示・紹介し、大森貝塚・陸平貝塚など著名な類例との比較研究を行っている。
  この論文は、斎藤忠博士が後に再録(1972年)し、本県では中村五郎氏が『猪苗代町史歴史編』(1982年)に初めて紹介・分析しているが、どのような経緯で資料が発見されたのかは不明であった。
  当館収蔵の県庁文書・福島県神社庁文書の中に考古資料の記述が一部散見され、「神代石・曲玉・雷斧」等の名称と数量がみられるが、出自が記載されていることは希である。
  明治時代以来県内の社寺に関する調査がなされ、その記録が今に残るが、明治28年に作成された「古社寺名所舊蹟碑碣宝物」(福島県神社庁文書32号)の簿冊に綴られた史料の中に耶麻郡月輪村(現在の猪苗代町の一部)大字山潟にある田子神社の古社寺取調書があり、この中に写真に示した田子沼から発見された「神代甕」を宝物とした細かい経緯が記載されている。資料は、明治12年に安積疎水を開削する際に「沼底泥深キ所ヨリ」発見されたもので、複数の発見が文意から読みとれる。工事の竣功に際して、明治14年には、岩倉具視ほかの高官に安積郡桑野村で「主任奈良原氏」(農商務権大書記官の奈良原繁)が展覧し、その後に田子神社に奉納して県の役人が臨席して臨時大祭を執行したとある。現在の郡山市開成山で行った岩倉臨席の鑿湖通水式は明治15年10月で、取調書中の14年は誤りかもしれない。「光沢ヲ帯ブルアリ」と土器の特色を記述しているのも注目される。田子神社の記述は、神社の由来を含めて詳細に記載されており、同様の古社寺調査記録では異質であり、実は同年に行った調査に漏れ、耶麻郡役所から県へ追加提出されたため詳細に記述されたのである。
  E・Sモースによる大森貝塚の発掘が明治10年であり、明治12年の田子沼からの縄文土器の出土記録は福島県の考古学史にとっても大変重要である。坪井の報告までに17年を経過しているが、坪井報告の資料もこの工事によって発見されたのであろう。どのような経緯で東大人類学教室に収蔵されたか、埋没している遺跡はどこかが今後に残された課題である。
(芳賀 英一)

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 平成26年度行事予定(平成26年10月~平成27年3月)
1.展示公開
『行政文書の魅力~明治時代のふくしまの姿~』
 明治時代を中心とした多彩な福島県の公文書を展示しています。
【会期】平成26年9月27日(土)~12月23日(火)
【休館日】平成26年12月1日(月)
【解説会】平成26年10月25日(土)・11月15日(土)・29日(土)・12月13日(土)・23日(火)
解説時間は1時間程度です。

『新公開史料展』
 『福島県歴史資料館収蔵資料目録』第45集に集録され、新たに公開となった資料を紹介します。
【会期】平成27年1月17日(土)~3月14日(土)

2.地域史研究講習会
 下の演題・講師による報告・講演を開催します。※小題省略
「東北の観音信仰」(高橋充氏・福島県立博物館専門学芸員)
「福島県考古学研究の黎明」(芳賀英一・当財団歴史資料課長)
「東北地方南部からの寺社参詣の旅」(原淳一郎氏・山形県立米沢女子短期大学日本史学科准教授)
【開催日・会場等】平成26年11月8日(土)午前10時~、福島県文化センター2階会議室、要資料代。

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