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福島県史料情報 第41号(平成27年2月25日発行)

 
目 次
 108年前の軽便鉄道機関車設計図
108年前の鉄道車両設計図(左上:機関車 右上:客車 左下:有蓋貨車 右下:無蓋貨車)
 軽便鉄道王と呼ばれた大日本軌道株式会社主の雨宮敬次郎は、腹心の渡邉新、代議士八田吉多・前若松市長佐治幸平、北会津郡(若松町・神指村・湊村)、河沼郡(坂下町・気多宮村・柳津村・日橋村)、大沼郡(高田町)の有力者と図って東山線・河沼線・大沼線の3路線からなる会津鉄道株式会社を起業し、明治40年(1907)2月13日付けで福島県を通じて内務大臣原敬宛てに「軌道布設特許願」(『軌道』明治・大正期の福島県庁文書2094号)を提出した。この鉄道は様々な事情から実現しなかったが、同年6月1日に会津軌道株式会社と名称変更され、株主数は21名、資本金総額50万円、持ち株数では雨宮5000株、佐治幸平2200株と両者が突出している。
 導入予定の車両は、蒸気機関車20両、ボギー式客車16両、同形式有蓋貨車12両、同形式無蓋貨車40両で、鉄道布設書類には希な青焼き設計図がそれぞれ2葉添付されている。蒸気機関車は東京石川島造船所(株式会社IHIの前身)の設計によるもので、軌間は762㎜、全長4m5㎝。設計図は8分の1縮尺で右下に「東京石川島造船所設計科之印」とともに製図者吉村、青焼き作成者小野沢の氏名があり明治40年1月に設計図が製作されている。『石川島重工業一〇八年史』(昭和36年刊)によれば、明治40年12月に大日本軌道に7t蒸気機関車20台及び5.5t蒸気機関車を納入とある。この設計図は、後者の設計図であり、米国ボールドウィン社製の機関車を模して石川島造船所が製作した機関車の設計図である。また「下工弁慶号」として山口県で当時の車両が動体保存されている。
 この軽便鉄道計画は、大正5年(1916)からの柳津軽便鉄道布設計画や後の会津線(只見線)の遡源となるもので本県の鉄道史上重要な史料である。
(芳賀英一)

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 会津藩士山内俊温が聞いた佐渡地震の記憶
 江戸時代に会津郡黒谷組叶津村(南会津郡只見町叶津)名主であった長谷部家は八十里越口留番所の役人も兼ねており、その伝来文書群は近世・近代一括で福島県指定重要文化財になっている。この文書群のなかに文化5年(1808)閏6月に只見村の五十嵐雅仙忠順によって書写された『越佐行程記』(長谷部家文書(その2)74号、左図)という興味深い紀行文がある。この時の忠順の年齢は弱冠21歳で、奥書によると、この写本は山内俊温の館に納めたものの控えであるという。
 同書は、会津藩校日新館の武講係であった山内俊温が蝦夷地警備のため藩の密命を受け、越後・佐渡両国の海岸警備を視察した時の行程や見聞を記したものである。視察の政治的な背景は、当時の国際情勢と密接に関連している。南下政策をとっていたロシアとの間で緊張が高まり、幕府は文化4年3月に西蝦夷地を直轄領とした。5月には奥羽諸藩に対して北方警備を命じ、翌5年1月に会津藩は蝦夷地に出陣している。
 33歳の俊温は僅か2名のお供を連れ、文化5年5月17日に叶津村を出立し、八十里越を通って越後国に入り、新潟・寺泊・出雲崎などの海岸部を視察している。
 俊温一行は、視察の途中で地震の体験談を聞き、強く印象に残ったらしく書き留めている。俊温らは、宿泊していた出雲崎の米屋弥三郎宅を出発し、五ツ半(午前9時)頃に舟に乗り、東風を受けて七ツ(午後4時)頃に小木の湊(新潟県佐渡市小木町)へ無事に着いた。小木の湊では島倉屋芳兵衛の所に宿を取り、主人から享和2年(1802)10月15日に起きた地震で小木では地面が五尺(約1.5m)ほど隆起したことを聞いたのである。この地震は享和2年11月15日の未刻(午後2時)頃に発生した地震と同一のものとみられ、その大きさはマグニチュード7であったという。佐渡では小木の被害が最も大きく、民家のほとんどが倒潰し、さらに火事も発生して大惨事となった。海岸は約120mも干上がり、強い余震が続くなか人々は津波の襲来を恐れて他者をも顧みず一目散に避難したという。
 所期の目的を果たした俊温らは、6月5日に六十里越を越えて田子倉村に入り、翌6日には只見村へ帰着したのである。
(渡邉智裕)

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 江戸時代の命名書
 
左:〔命名書〕(宜名 金、大橋康雄家文書233号)、右:〔命名書〕(宜名 源助、大橋康雄家文書235号)
 人間は命名を受けて社会の構成員となっていく。現代でも、お七夜(産後7日目夜の祝いの行事)に命名式を行ったり、命名書を披露したりする。中には命名書やその写真を大切に残している家もあるだろう。
 大石村(現伊達市霊山町大石)上組の庄屋を務め、郷士格を認められた大橋家には、男女合わせて5人・5通の命名書が保存されている。いずれも折紙で、中央に記された「宜名」の下に名前が記され、男子は「良蔵」「理三郎」「源助」、女子は「岩(いわ)」「金(きん)」と命名されている。「岩」はその固さから丈夫に育つように、「金」は災厄を払う願いを込めて名付けられることが多い。
 文書の袖(右部)には命名された者と家長との間柄が記載され、大橋家の家族又は親戚の命名であることが分かる。奥(左部)には日付が記され、5通は文政・天保・安政期(19世紀前・中)のものである。さらに日付の下に大きな「寿」の篆字印影が見られ、子の誕生を祝している。最奥には白河藩保原陣屋役人の「鈴木源右衛門」や「山本勝右衛門」が命名を承った旨が記されている。
 大橋家の文書に、本書とは別に行政事務的な出産届や、戸口報告も兼ねた「宗門人別帳」などが遺る点を鑑みるに、本書は私的な史料とみられ、郷士格の大橋家が、家格を意識し、領主側に命名への関与を求めたものではないかと思われる。
 最後に、庶民の女性名は、「宗門人別帳」や「離縁状」などの研究から、かな書き2文字ないし3文字が原則で漢字を用いる例は稀である。この傾向に対し、大橋家の女子の命名書は全て漢字で命名されている。他方、宗門人別帳の大橋家の女性はひら仮名でしか表記されていない。この点、漢字・ひら仮名の使い分けの可能性なども考えられ、女性名の実態を研究する上でも興味深い。子の誕生に対するさまざまな想いが込められた命名書もまた、近世庶民の名前を研究する上で、好個の研究素材といえる。
(小野孝太郎)

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 磐城平藩士広江永貞と『続神壁算法起源』

『続神壁算法起源』乾(長沢清家和算資料245)
 江戸時代も18世紀に入ると、全国各地で和算が盛んになった。和算は現代の数学に当たり、江戸時代を通じて多くの和算書が出版された。和算は年貢収納の勘定、検地や土木などの測量技術とも密接に関連し、実学としての側面も隆盛の理由のひとつであった。それゆえ諸藩では和算が奨励されたり、和算に精通した者を召し抱えていたのである。
 江戸時代後期の磐城平藩に広江永貞という和算家の藩士がいた。永貞は天明4年(1784)に美濃国厚見郡上加納村(岐阜県岐阜市)に生まれ、実名は永貞、通称は彦蔵、雪暁と号した。永貞は尾張国名古屋藩士近藤実之の門人で、17歳にして関流和算の奥義を受ける程の俊英であった。また、永貞は藩士として分領の美濃国切通陣屋(岐阜市)で執務していたという。享和3年(1803)11月8日、磐城平藩主安藤信成(信明)は美濃国内に一万八千石余を加増され、その飛領支配のため切通陣屋を置いたのである。
 永貞は、天保4年(1833)初冬の序文をもつ『続神壁算法起源』という和算書を刊行した。序文は浪華の暦算家武田真元が記し、永貞を豪傑で英明な人物であると評している。版元は京都寺町通五條上ル町の天王寺屋市郎兵衛の水玉堂で、関流の和算書や暦書を多く出版している書肆である。この本は乾坤2冊からなり、その内容は、『続神壁算法』に収録されている算額のうち32面について、永貞とその門人らによる解き方が詳述されている。乾には13題分、坤には19題分が、収録されている。また、同書には磐城平藩関係の人物として、永貞子息の広江彦治郎永次、永貞門人で藩士であった山名佐太郎好一や同じく藩士の広瀬水右衛門政令が見えている。
 このほかに永貞の著作としては、天保4年に名古屋の片野東四郎の永楽屋より刊行された『天保五甲午年七曜晴雨考』という一枚物の暦書が知られている。
(渡邉智裕)

 
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 瓦版が報じた棚倉藩領内の敵討ち

「奥州棚倉ニおいてかたきうちの次第」(2枚1組の内1枚目、個人蔵)
 「比(ころ)ハ嘉永二年(1849)七月廿八日奥州たな倉(棚倉)ニおいてこゝんめつらしきかたきうちのしだへあり(古今珍しき敵討ちの次第あり)…」と始まる本書は、棚倉藩領内での兄弟敵討ちの瓦版である。瓦版は、心中や災害、珍談奇談などの事件を記事とし、街頭で読売りされた刷り物である。特に敵討ちは武士道・儒教の精神に沿うことから多数の瓦版が刷られ、多くの人々が美談に酔いしれた。
 本書の敵討ちは、天保4年(1833)、奥州伊具郡金山御領主、中嶋虎之助足軽の木坂権蔵が、牛方(牛追い)大助を相手に、大助の女房おたつとの不義の件で口論になり、権蔵が殺害され大助夫婦が出奔したことに端を発すると記される。
 被害者の権蔵には勇吉・順治の子供がおり、兄勇吉は幼心にも敵討ちを心掛け、15歳の春に敵を探しに出る。伊勢参りとなり江戸・京・大坂、九州、津々浦々を尋ね14年が過ぎ、讃岐金毘羅で心願をかけていると、敵の大助が奥州棚倉に居るとお告げを受ける。勇吉は喜び勇み奥州を目指し、白河で手掛かりを得て棚倉で敵を見つける。勇吉は逸る気を抑え金山に戻り、弟の順治を引き連れ見事敵の大助を討ち果たす。兄弟は棚倉御役所へ届け出て、仙台藩の役人が兄弟を受け取りにやって来た所で「あつはれめさましかりける(天晴れ目覚ましかりける)次第也」と締める。後に、兄弟は実際に仙台藩で篤孝を賞賛されている。
 さて、この敵討ちは現実に起きたものだが、情報収集や脚色などを経て事実が変わり報じられた。その実、棚倉藩領常陸国多賀郡山小屋村(現北茨城市関本町富士ケ丘)平袖の敵討ちで、敵は丑之助、討手は荒音吉・重作、父は伝左衛門である。当時、多賀郡の一部は棚倉藩領であったため「棚倉」「陸奥国」を冠して伝わる事例が多見される。茨城県のみならず棚倉藩を介し福島・宮城両県に今も伝わるこの敵討ちは、瓦版などを通して各地へと伝えられ、後に評論家千葉亀雄氏の著作でもとりあげられることとなる。
(小野孝太郎)

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 軽井沢銀山の水力発電
 明治28年(1895)に河沼郡柳津町にあった軽井沢銀山用の水力発電所が建設されて鉱山の鉱業場に会津で初めて電灯がともされたことが町誌等で触れられているが、今日までこれを裏付ける根本史料が示されることはなかった。当館が収蔵する史料(『福島電灯会社』明治・大正期の福島県庁文書3917号)に、この発電所の申請・許可・設計等に係る一連の重要な史料があるので紹介する。
電気灯設置の認可(軽井沢鉱山)
 発電所(工事設計書での名称は上新田発電所)は滝谷川水系の当時大沼郡湯八木沢村上新田1945番地(明治20年頃の地籍図では120番地)の水田に建設し、ここから東北東に4.5㎞の軽井沢銀山までほぼ一直線に電柱144本を設けて送電し、銀山の鉱業場(事務所等)の電灯用として利用された。発電所の動力はベルトン式75馬力の水車1台を設置し、そのうち40馬力は電灯原動力として使用する。電気は3線方式の直流。発電機はジーメンス社及びハルスケ式の出力50KW。鉱業場を照らす電灯は10W・16W合わせて250灯の白熱電灯、600Wの弧状灯3灯の設置を計画する。電灯は、「岩代国大沼郡東川村大字軽井沢銀山鉱業場内電灯線之図」を作成添付して鉱業場内の設置箇所を明記している。
 逓信大臣から福島県への認可の日時は明治28年6月10日、県から軽井沢銀山への設置許可は同年6月13日、明治30年4月13日に鈴木誠介・中ノ川村東川村組合村長大竹賢二代理の助役佐藤亀太郎から福島県知事安楽兼道あてに、鉱業の休止に伴い、同日限りでの「電気灯廃止御届」が提出されている。
 鈴木誠介は古河市兵衛経営の軽井沢銀山責任者で、古河鉱業で長野県赤柴鉱山、山形県幸生鉱業、栃木県足尾銅山などの鉱山経営に係わった若松出身の旧会津藩士である。上新田発電所ならびに軽井沢銀山の鉱業場の電気は、工部大学校で先端の科学を学んだ旧会津藩士の秋山義一(初代若松市長秋山清八の弟)が統括し、足尾銅山の間藤水力発電所建設や銅山内の電気運用に係わった熟練の技術者が携わった当時としては最高水準のものであった。
(芳賀英一)

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 歴史資料館の1年
 今年度は、指定管理者制度3期目となり、歴史資料館も新たなスタートを切りました。
 収蔵資料展は、ふくしまプレDCに合わせ「江戸の旅―諸国めぐりと旅文化―」と題し、江戸時代の庶民の旅の様子を紹介する展示を行いました。その他、関ヶ原合戦・大坂の陣以降の時代的様相の変化を踏まえ、江戸時代初期の地域支配のあり方を紹介した「近世ふくしまの夜明け」、公文書管理法制定5周年を記念し、明治・大正時代の多様な福島県の公文書を紹介した「公文書管理法制定五周年記念 行政文書の魅力」、収蔵資料目録第45集で公開した史料を基に代表的な資料を展示した「新公開史料展」の合せて4回のテーマ展を開催しました。
 古文書講座は、「武家の文書を読み解く」と題し、多彩な大名の年賀状や、折々の挨拶・贈り物お祝いとお悔みから、武家文書の基本的な様式や、大名間の交流や儀礼の実態について4回にわたり実施しました。
 フィルム上映会は、「日本の伝統芸能と文化」をテーマとし、文化センター古典芸能「狂言公演」に合わせ、日本伝統的古典芸能である「能・狂言」のそれぞれの記録を上映し、また、文化に関する映像資料では、アイヌと福島県三島町に伝わる植物を使った編み物の作成工程を記した作品と、日本の東西の村落景観と地域社会の編成の相違を対比的に映像化した作品を3回に分けて上映しました。
 地域史研究講習会では、中世以降東北の観音信仰の様相と特色についてと、福島県考古学の黎明期を築いた研究者についての報告、近世東北地方南部からの寺社詣の旅について伊勢参りの事例に基づいた講演から歴史研究法への理解を深めました。
 緊急雇用創出事業では、業務の一環である県庁文書の整理も滞りなく進みました。今後も整理体制を整えながら県庁文書の整理を継続していく予定です。
 福島県被災文化財等救援本部の活動による、被災地の歴史資料の保護活動も行いました。

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